Like a Little Lyry Girl ◆これまでのおはなし◆ 大学を自主退学したあと目的もなく暮していた星野哲生はそれまでの彼の人生の華やかな部分の大半をずっと蝕み続けてきた<<悪い夢>>のことを小説に書いた。そしてその小説『不燃症』はある小説賞の大賞をとり、彼はひさびさに出現した純文学の彗星として一躍脚光を浴びることになる。だが、彼が小説を書くことができたのはまさにそれ一度きりだった。 新作の発刊を匂わせることでお茶を濁すことも出来なくなった頃、方向転換を図って発表した『枕ランブリングマン』は自嘲的な軽めのエッセイでヒット間違いなしとまで見込まれたが、雑誌『カント』誌上において行われたその年の「最低の書アワード」の上位にランクインするまでのものだった。翌年、『間違いのない眠り・桎梏』を発表。彼としても起死回生の策であったが、これも様々な方面から「希に見る苦し紛れ」という何とも語呂のいい酷評を受けた。 そして彼は完全に文壇から消えた。 中学三年生の遡良(ソラ)は彼女自身が「変質者」と呼ぶ青年と出会った。 これは、それからのこと。 *−* 未だに夢に見る。 数限りない無数のフラッシュがあたかも惑星の誕生の瞬間のような勇壮さとけたたましさを思わせ、その機械の熱線が焚かれる度に頬はチリチリと焼かれた。強烈な体験だった。そう、まるで、猛スピードで暴走する車両の前に突然飛び出したような、そんな忘却。 その忘却の彼方、茫然自失の果て、想念の死にゆくところ。そこに取り残されたまま、時計は針を進めない。あれは本当に強烈な体験だった。誰であろうと二度同じ体験をすることは叶わない、だから未だに夢に見る。本当にあの瞬間、<<悪い夢>>から解き放たれたと感じたのだ。だから未だに忘れられずにいる。それの、虜のままだ。 星野は煙草の煙を肺の奥から一息吐き出し、空気中に解け散らばる紫煙をスクリーンのようにして、そのまどろみの向こうにあの時のことを思い返しては写幕に投影していた。 * シャッターをきる音が止まない。それに伴いストロボの閃光が煌く。眩しくて目を細めたままだ。着馴れないスーツ、締め馴れないネクタイ。一応ブランド物で揃えた。背広の胸のポケットにはブランド物のサングラスが入っている、それを一体どのタイミングでかけたら不自然ではないか、そればかり考えている。爺さんが喋っている。記者が喋っている。 髪が金髪だと言われ、両耳合わせて七つの穴とそこを通るピアスのことを指摘された。記者はまるで学校の先生みたいな言い草だった。わざわざ指摘しなくとも見たまま金髪だし、あからさまにピアス穴は開いている。そしてある者はこの容姿をして反体制だとのたまい、ある者においては今時の若者だと風刺した。その者らにまじって作品の本質とも言うべきある種の息苦しさから世相を切り取ろうと試みる者もいた。ひとつだけ言うならば、全ての者が壇上を見ていた。壇上の金髪の青年を見ていた。口々に「若すぎる」と。爺さんの話は要約すると「若すぎる」ということだった。 二十二歳だった。 --ディスウィークスナンバーワン、星野哲生『不燃症』。もう十六週連続で一位の超ロングセラー、星霜賞受賞の著者、金髪ピアスの文学青年・星野哲生のデビュー作がまたもやトップ。心に闇を抱えた主人公の鬱勃をみずみずしい感性で疾走する焦燥感と切なく終わりゆく恋愛劇として描き出し、多くの謎を振りまきながら読む者を魅了してゆく必読の純文学。果たして主人公が最後に出す答えは?「悪い夢」とは?作者ならではの透き通るような描写が沁みる、新時代の青春の書。 --わぁ、また『不燃症』が一位だったねぇ。この星野哲生クンてカッコイイんだよねー。 --今月発売の『グーテンヴェルグ』誌上で女優の榊村ちゆとの対談で次回作のことにも触れているので今から楽しみ。 --ちゆと言えば彼女のエッセイ『ポキポキな日々』も三位で売れてるねー。癒し系女優の彼女ならではの文章がカワイくてステキー。これ読めばアタシもちゆみたいになれるかな? --オイオイ、それは無理だって。 --ディスウィークスナンバーワン、砂武LOW(サブロウ)『明日は明日の風が吹くから、今日をがんばった』。キュートでどこかオカシなイラストと前向きなメッセージで若者に人気の三冊目の詩集。彼のイラストは人気のミクスチャーバンド『チンク・シャンク』のアルバムジャケットでも有名だね。 --アタシこのイラスト好きー。カワイイー。 --さて一位までランキングが終わったところで、来週発売の注目ブックス。まず、柱勝造『負債乱立地帯 涅槃』。骨太で重厚な作風で人気の「地帯」シリーズの最新作、主人公・号玉の知略が相変わらず冴えわたる二十作目。続いて、星野哲生『枕ランブリングマン』。『不燃症』でヒットを飛ばした作者の待望の書下ろしエッセイ、後ろ暗い男の自嘲的グラフィティ。次は、相川ぷるる『しゃぼてん』。人気女流作家の最新書下ろし長編がついにリリース、次週のチャートではかなりあがってきそうだぞー。 --相川ぷるるさんと言えば前作『ふりぃじあ』が映画化されてそっちもヒットしたよねー。主演が榊村ちゆ、カワイかったー。アタシもちゆになりたーい。 --オイオイ。無理言うなって。 『結界』誌に発表された星野哲生の新作『間違いのない眠り・桎梏』について。 鮮烈だった処女作の雰囲気は見る影もなく消え去り、そこに漂うのはただのおぞましくも過剰で独善的な自意識のみである。主にベストセラーだった『不燃症』への回帰を図りたいという気持ちが全面に押し出され、当時の華やかな生活や惜しみなく与えられた賛辞の言葉が幻視や幻聴となって主人公であるところの星野自身をリストカットへまで追い詰めてゆく前半は読んでいて背中におぞましい寒気が伝う。それとて味わい深い描写などではなく、ただただ駄々をこねる子供の様を大人ぶって独白したような代物であるから、読むに耐えない。 特筆すべきは、後半の麻薬中毒を匂わせた描写である。例えば、「緑色の配達夫」。それは文脈からどう推測しても大麻の売人・運び屋のことであろう。そして「枯れた手」これはまさにマリファナのことである。「落穂ひろい」や「安寧顔を植えた鉢」など、それを匂わせる描写は数え上げればきりがない。そして二○三頁にははっきりと「枯れ葉に火を放ち、煙を吸い込んだ。のち八時間の漂流」とある。これはもう決定的で疑う余地もない。それから、「白い売春婦」とは覚せい剤を暗喩した言葉である可能性が強い。星野はこの後、「白い売春婦と寝続けた」のである。もちろん、「大枚をはたいて」である。そして全体のテーマである、「桎梏」だったもの。星野はそれらに磔にされたが如く、縛られていたのだ。筆者が少し調べただけでも近隣住民の評判というものから決して彼の精神状態がまともだったとは断定し難く、おそらくドラッグによる酩酊状態によって奇行に走ったものだと考えられる。星野氏の住む都内のマンションの近辺では星野氏本人だと思われる男が全裸で何かを叫んでいる姿が度々目撃されており、これらから彼がかなり重度の薬物中毒者であることはほぼ間違いがないようだ。 以上の事柄がとくにリアルに描かれるわけではなく、あるいはひとりの薬物中毒者の記録というよりは曖昧な表現と霧の向こうを指したような描写とでひどく自愛的にまとめられ、よくもまぁここまで鳥瞰の図を切り離せたものだと逆に感心せざるを得ない。拙にとっても文壇にとっても星野氏の『不燃症』は多少なりともセンセーショナルな事件であったが、本作はそれ以上にセンセーショナルな意図をもって書かれている。金髪小僧のまぐれ当たりだなどと風聞にすぎない、だが、それとて人の口に戸はたてられまい。 拙もただただ純粋に文学を愛する者として、非常に残念な気分に他ならない。 (月刊『出歯COM(デバコム)』から 文・丸岡庇) * 少しでも油断すればこの有様だった。気を抜いてぼんやりとまどろんだりすると、決まって汗をびっしょりとかいて飛び起きることになる。ソファに横になって煙草を悠然と吸っていたはずだった。足元には煙草の火がカーペットを焦がしていた。それはもうだいぶ時間が経った痕跡を残している。黒く細長い焦げ跡だけが時間を空白としてではなく、その身を潮流にさらしていた。 近頃はよくこうやって考え事の途中でそれを分断されてしまうことが多い。胸の底の一番底、音もなく澱がまるで海底の砂の中の気泡が弾けて砂を巻き上げるように吐き上げられて、海中に漂う誰かの吐瀉物みたいに鈍く白く舞う。「ゲポッ」と吐きくだす瞬間のような音を簡潔に奏でて、その瞬間に妙に頭がすっきりとしてしまう。それは良くないことなのに。 舞い上げられた澱が再び底まで沈澱してゆくあいだ、非常にポジティブに自棄的な気分になっていく。<<悪い夢>>がはじまる。 いつのまにか眠ってしまっていて、ふいに目を覚ます。女が見える。塩化ビニールの買い物袋を提げた女が仰向けのこちらを伺うように覗き込んでいる。そのまま、女は言った。 「寝てたの?」 まぶたを手の甲で擦り、指には煙草のフィルター部しか挟んでいないことに気がついて事を察した。ああ、また絨毯を焦がしてしまったか。 「いや、知らないうちに寝てしまった」 「何か食べた?」 女は手に提げた袋を少し持ち上げるような仕草で尋ねた。 「何も食ってないけど、腹が減らない」 「駄目よ、きちんと食べないと。そういえば、また痩せたんじゃないの?」 「昨日は酒を飲んだ」 「どのくらい?」 「そこ、缶ビールだからたいした量じゃないよ。いち、にい…五本か」 「あまり飲みすぎては駄目よ」 「分かってる。ビール五本ぐらい慎重になる量じゃないって」 がさごそと袋の中身を取り出して、それらを冷蔵庫の中に移していく。その行為の説明として、彼女はとってつけたように言った。 「今日はお鍋にでもしようかと思ってたんだけど」 無言のままだったが、返事は理解したようだった。彼女は「食べて欲しいのだけど」か、もしくは「一緒に食事がしたいのに」というような暗に残念な表情をした。そして話題を変えるように、真意を切り出すように。 「ホシ、小説書けてる?」 そう言われた途端に露骨に不機嫌な顔になる。 「だから、書けねぇって…」消え入るような声で。 「ゴメン。そういうこと言われるの嫌いなの知ってるけどさ、わたし、心配なのよ。分かるでしょう」 眼差しはとても真剣だった。 「有美(ウミ)、俺これから仕事したいんだ」 「邪魔しないから」 「けど、残念ながら、お前の好きな小説じゃない」 それだけを言うと机に向かって背を向けたきり一言も口を利かず、彼女が帰るまで面と向かい合うことはなかった。 (→)
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