Like a Little Lyry Girl 星野はインターネットをしていた。仕事と称している時間のほとんどはただネットサーフィンに興じているにすぎない。資料を集める目的もたまにはあったが、それほど、インターネットをしている時間に見合うほどは仕事がないのが現状だった。過去の栄光などは取り繕っても余計な足枷でしかなく、ましてやいくらかでも星野を助けてくれる材料にはなりはしなかった。日中から深夜まで、ほとんどインターネットだけをして過ごした。 また、それが都合が良かった。一応過去にヒットを飛ばした身である。憶えている人ならばまだ顔を覚えている。そういう場合も希にある。この流行の移ろいやすい昨今であっても、希にそういう人はいるものだ。だから、元来人付き合いが苦手だったと悟った今では星野はほとんど外出はしなかった。 メールにチャット、そういった他者とのコミュニケーションも度が過ぎない程度に留めれば好んだ。実際の面と向かった人付き合いと違って予めこちらから面倒が避けられたし、適度に欲求をまぎらわすにはこれで十分だった。仕事をすると告げて有美(ウミ)を帰した後も、パソコンを立ち上げてワープロソフトを開かずにインターネットに接続した。そうしたとき、少しは表情が緩む。 「新着したメールはありません」 そのメッセージを目にした途端、落胆する自分が存在する癖がついてしまっている。何となく溜息を吐いた。そしてそのままメール管理ソフトを操作して、以前に受信したメールの文面を繰り返し繰り返し読んだ。あるメールを表示したとき、星野は動きを止めた。 「わたしも、starinn さんに会いたいです。会ってお話ができませんか?」 そのメールはそう言っていた。日付は十月二十日。 諦めか、それとも。途端に憮然とした表情を浮かべてパソコンの電源を落とす。八畳の部屋の窓から一番遠くて暗いあたりに陣取った事務机の椅子から立ちあがると、着古したCarharttの茶色いカバーオールをトレーナーの上から羽織ってアパートの外に出た。スチール製の階段をテンポ良く降りれば靴底の奏でる小気味いい音がスチールパンの音色のように気だるく響く。それもこの陰鬱とした気分にはむしろ似合っていた。 いつも夕食どきに行くうまくもまずくもないラーメン屋で飯を済ませると、途端に暇になってしまう。やることがないのだ。起きて考えなくてはならないのは飯のことと寝る前のインターネットの続きのことだけで、両方が済んでしまえばあとは何もない。カバーオールのポケットから煙草を取り出そうとして、部屋に忘れたことに気が付いた。財布から小銭を出しながら、自動販売機を目指す。ここいらの煙草の自動販売機の立地は把握している。たいがいいつもラーメン屋の帰りに購入するからだ。 灯りに誘われるようにふらふらと歩き出す。ソンビのような足取りで。 割と遅くまで営業している書店に踏み入り、きまぐれで雑誌のコーナーを歩き見る。なかなか食指が動かされることはない。文芸誌の前まで来て、その平積みの本を一冊手に取りパラパラとめくってみた。知った顔の人間もいた。ほとんど何の感情も浮かんでこない。きまぐれで今この本を手に取るまでどこか避けていた節があった。悔しい、とか、妬ましい、とか。そういった感情に支配されることを怖れていたのだ。だが、これはどうだ。元通りに本を戻し、更に歩を進め旋回するように書店を出た。 また煙草に火をつけると、カバーオールのそこだけ色の違う襟をたてた。いつも飯を食いに出るだけの用事なので、薄着で出てしまう。そのへんにあるものを着て、そこいらへ行くだけだ。だが、どうしたことか今日は少しばかり散策じみたことをしている。寒い。商店街を行く人が考えていたよりも厚着で驚いたりもする。こんなに寒かったか。商店街を抜けると道幅が次第に先細りしてゆき、そろそろと胸をざわつかせるような空気が漂う。夜の川だ。突如として眼前に現れた巨大な土手の斜面を見上げ、体を反る。そうしてその斜面を登りきれば、今度はいっきに眼下に広がるのは大きな漆黒の流れ。昼の河川と夜の河川はまったく別の顔を見せるが、星野はどちらも好きだった。まったくの別物だったから、無理に片方に絞ることはない。どちらもを好きでも問題がない。 しばらく川を見下ろした後でブルッと体を震い、肩をすくめた恰好で赤い町の灯を見つめた。 日中思いたっては長い散歩に出る。小さなグレゴリーのショルダーバッグを肩から提げて、対岸の向こうに位置する街の中を歩いた。主に目指すのは路地というか住宅の密集した地帯の隙間である。岸のこちら側も含めてここいらは古い街並みのまだ残る地域であるため、マンションビルとマンションビルの間を縫うのとはまた違った趣を垣間見ることが出来たのだ。 平屋の家屋を眺めながら細くてささくれだった路地を迷路のようにさまよう。本当にちょっとした迷路並みだ。背の高い植物が頭から飛び出した板塀の向こうにはすぐ住宅の中が見通せるぐらいの無防備さと緊張感があり、どこもかしこも見張りを立てられているような居心地の悪さを感じながら、もう少し太い道路へと出る道を探していた。あちこちで野鳥の声のようにテレビの音声が聞こえる。 ジャングルを抜け出た瞬間のような開放感でそこは現れた。やっと車がすれ違えるぐらいの道幅、それとて一台は道の路肩も歩道もないようなところをギリギリまで寄せて停車して、それでようやく遂行される通行だった。住宅から一転して今度は商店のような並びに変わり、店の二階や隣りに住まいがあるような形だ。そこからは何の音も漏れてはこない。無人なのだろう。 その所在を知らせるのはテレビの無機質な音声か柔らかく豪胆な笑い声だった。商店の内部からは人の動く衣擦れの音が聞こえてきそうだった。どんな路地も初めて訪れた感動はとても静かでともすれば見落としてしまいがちだった。そして、ついつい惰性で懐かしい気持ちになってしまう。星野は通りの端に立ち、目の前の店から香る練り物の蒸される匂いを嗅ぎながら、白衣を着た中年の女性の働く姿を眺めていた。ゴム長靴がキュキュとあしかのように鳴いた。通りにバケツで水を撒いた。マスクをしたままもごもごと喋った。星野は空を探して遥か向こうに見える大きな赤い橋を見た。 おでん種を想ったままそれが頭から離れなくなった星野は小さな商店で買い物をしていた。四角い中の見とおせる冷蔵庫から生ぬるく冷えたペットボトルを取りだし、それから八十円の調理パンをひとつ買う。それらを店先で食べた。 手元のパンの包みにやっていた目線をふと元に戻す。数人の少女が目に入った。彼女達は何処かの学校の制服に身を包み、揃いの青い鞄を肩から提げていた。鞄は誰のも一様にくたびれて、青というよりは茶色のようにくすんでいる。背の高いのもいれば背の低いのもいた。うす汚れたルーズソックスを履いたのもいれば紺の靴下を履いたのもいた。星野は彼女達が中学生だということを知っていた。彼女達を眺めるともなく眺めながら、ポケットの中の煙草を取り出し商店の前に設置されたスタンド灰皿の真横で咥えた煙草に火をつける。ペットボトルの口をきつく回し、その間じゅうずっと彼女達の背を眺めていた。特に、彼女達の中で自身に一瞥をくれた真中の彼女の背を。 一本の煙草を吸い終わる頃、ひとりの少女が元来た道を返してきた。そのままゆっくりとこちらへ距離を保ったまま体を向けると彼女は言った。 「何してんですか」 それはまるで「微に入り細に入り、訝しむ」とでもいうような懐疑的な眼差しを向けて、こちらを見据える。瞳の奥の表情は冷たい。怒鳴る風でもないのに、語調が強い。彼女は肩からずり落ちた青い鞄を再度肩に掛け直し、腕を通した鞄の持ち手を両手で握るように力を込めた。シートベルトのようだった。顔に緊張の色が見える。 「別に」 星野は事も無げに言った。そしてその言葉にみるみる激昂してゆく彼女の顔を見ていた。 「ふざけないで」 彼女は驚くぐらい強く言った。もう少しで叫びになるところだった。星野は観念したとでもいうように溜息を吐き、言う。 「別にふざけていませんよ。仕事だよ、仕事」 「うそつき。仕事してないって言ってたじゃない」 「あれは建て前。本当は少しはしてるんですよ、たいした量じゃないけど。それでここにいるだけ。本当に他意はありません」 「信じられない」 「信じなくともいいさ」 そう言うと彼女は黙ってしまった。それは星野の言葉のあまりに温度の低いせいかもしれなかった。それで動きがとれないのかも。しばらく店先の無言が続く。 「どっか入って何か飲む?奢ってあげようか?」 星野は試しに言ってみた。もう半ばやけばちに近いものがあった。ただ、黙って立ち去るのはあまりに酷な気がしてしまっていたのだ。 「いい。目立つから」 搾り出された声から察するに、泣き出す寸前のようだった。俯いていたので分からなかったが、声は確かに涙声だった。洟をすする。 「そういうものか。じゃぁ、何か買ってあげようか?」 「いい、お金持ってるから」 「へぇ。俺が中学生のときって金なんか持ち歩いてなかったけどなぁ」 その感嘆の調子があまりにすっとんきょうなものだったので、彼女は噴き出した。そして俯いていた顔をあげるとようやく顔に明るさを取り戻したようだ。彼女は笑い続けた。 星野は指をさして言った。 「あっちに住んでるんだよ。あそこらへん。それでいっつも向こうからここを眺めているんだ、今日は逆だけど」 「へぇ」 つまらなさそうに遡良(ソラ)は言った。星野は振り返ると彼女の顔を見て言う。 「ここなら目立たないわけだ?」 「わたしたちは『川の塔』って呼んでるけどね。でも誰も立ち寄らない。錆びてて危ないし、それを承知の上でも特にメリットがないし。ときどきカップルがキスしてるぐらい」 ふたりはその『川の塔』の上にいた。それは川の水門の見張り台の名残とでも言おうか、現在はプールサイドに置いてある監視員が座る高椅子のような、それの鉄製の大型のものが古びて建つのみの無整備の土手下の川辺である。星野の住む対岸は割と整備されていて、遊歩道のような道や野球のグラウンドもベンチも花壇もある。だがひとたびこちらを見ればまるで整備が不充分で、手のつけられないほどの荒れようだ。 塔の上のスペースは四畳ぐらいだ。周囲を鉄製の柵で覆われ、高さはそれほどない。飛び降りたら思ったよりも高かった、という程度だ。怪我はもしかしたらするかもしれない。 対角線上にいる相手に向かい、風の音に邪魔されながら話す。 「目立たないかもはしれないけど」 「何か言った?」 「いや。それで俺の誤解は解けたの?」 「誤解って?」 「今日だって”変質者”呼ばわりじゃない。自分ではそれほど怪しい自覚はないんだけどなぁ」 「怪しいよ。ちょう怪しい」 「髪が長いから?」 「長いっていうか、全然切ってないでしょ。髭も剃れば」 そう言って笑い、手元の紙製容器の飲料のストローに口をつけた。 はた、と風が止んで会話が途切れる。 「仕事って言ってたじゃない?」 遡良のほうから喋り出した。 「うん?」 「仕事」 「ああ、うん」 「何してんの?」 「散歩。散歩するのが俺の仕事」 「また。そういうのが怪しいんだよ、何で嘘つくの?わけわかんない」 「まぁね、誰も俺を信用しないわな。でも本当だよ。君が知らないだけで世の中には散歩するだけで金が貰える仕事があるんだよ」 「うそ」 「本当だよ」 彼女は少し考えていた。それからずっと黙っていた。星野は遠くの対岸を見つめ、話しだす。 「『一歩進めば足を取られる、二歩進めばもう帰れない。ホシテツの路地裏泥沼探訪記』。それが俺の仕事。路地裏とかを歩いて面白いものを見つけたり、そこに暮す人々を見て俺が救いのないことを空想するの。そういうの書いてるの」 「コラム?雑誌、何の雑誌?」 「ごめん、それは言えない」 「うそ?」 「嘘じゃないよ」 遠くの雲や赤く焼ける、炭が燃えるみたいに音もなく焼ける。その灼熱は空気も動かさないぐらいに静かで、そして哀しくなった。サイレンが鳴る。 「それは、儲かる?」 サイレンの鳴り終わりに遡良は言った。 「いいや、儲からないよ。月に一回だし、たいした文章量じゃないし」 「大人はさぁ、そういうので暮していけるもの?」 「さぁ、どうだろう。無理じゃないかな」 「どうしてんの?うち、お母さんとか大変そうだよ」 「あ、うん。蓄えがあるんだ」 「貯金してたの?」 「まぁ、そのようなもの」 「へぇ」 梯子を降りるとき掴んだ柵手の表面がボロボロ剥がれて、手の平に付着する。赤く鈍く錆びて、剥がれ落ちてゆく。手をはたく。彼女は先に降りて待っている。 「携帯の番号教えて」 遡良は突然思いついたように言った。 「あ、ない。持ってない」 「携帯持ってないの?」 「だって使わないよ。じゃぁ、自宅の電話番号を」 そう言って肩から提げていた小さなショルダーバッグの中からメモ帳とペンを取り出して、そこに数ケタの数字と名前を書いた。螺旋状の留め金から引き千切るように紙を破き、手渡した。 「ふぅん。本名?星野…哲生」 彼女はそう言うと鼻を鳴らした。 「夕方はすごく寒いね」 「そう?わたし別に寒くないよ」 「若いって素晴らしい」 ふたりは一緒に笑った。 (→)
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