Like a Little Lyry Girl sora からのメールは途絶えた。その代わり、遡良(ソラ)からの電話がかかってきた。二十時を回ったあたりだった。やけに唐突だった。 「星野さん?」 彼女は小さな声でそう尋ねた。受話器の向こうから聞こえる声はとてもか細く、気の弱そうな声で可愛らしい。 「そうだよ。やぁ」 「…本当の番号だったんだ」 「嘘なんかつかないよ」 「うそ。ついたもの」 くぐもるような音声から彼女がひそひそと話しかけていることが分かる。会って話す快活な印象とはとても違っていた。 「ご飯食べた?」 星野は試しにそう尋ねてみた。 「え、食べたよ。わたし、いつもひとりだからね。だから家に帰ったら割とすぐ」 「そう。寂しいね」 「別に」 流砂のような沈黙が流れる。 「…あのさ。見たんだけど」 遡良はそう切り出した。 「雑誌、『カルドセプト』」 続ける。 「そう、見たんだ」 「嫌だった?」 「ううん、別にいいよ。雑誌に載ってるわけだし。けっこう探した?」 「うん。けっこう探した」 「あんまり君が読むような雑誌でもない。裸だって載ってるし」 「あ、でも。わたしは女だし、別に」 砂漠に臥して倒れた放浪者の姿は時と砂の沈黙がすっぽりと隠してしまう。耳鳴りのようにただサーッという音だけがしていた。 「今度、ご飯でも食べようか?」 星野はそう言った。 「奢ってあげるよ」 そう付け加えた。 約束の時間に現れた彼女は、濃紺色のジャンパースカートの中学校の制服姿と比べるとそれよりは大人びて見える。星野が初めて彼女の姿を見たとき同様、その姿を見つけたときの衝撃というのは少し表現しにくい。 遡良(ソラ)はフードのついた深い緑色のショートコートに砂色のプリーツスカートを履いて、その下にはアーガイル柄のタイツを履いていた。一際そこだけが目立つスニーカーはVansのV67、赤いチェッカーフラッグ模様。それがチカチカと目に痛い。全体的に黒味がかった髪をざっくりと後ろで纏め、腕組みのまま難しい顔をしてこちらに歩いてくる。歩くたびに足元がチカリチカリと市松模様の白い部分が光った。難しい顔が何かと思えば開口一番、寒さを訴える。 「あ」 彼女はそう大きな声を出して、星野の顔を指差す。 「ちょっと、美容院とか行ってみたんだけど」 「いいじゃない」 「もう怪しくない?」 「怪しくない、怪しくない」 そういった気取らない軽々しい会話をひとつふたつとするうちに、心の底に溜まる澱の存在を忘れてゆくようだった。遡良の顔をじっと見ると、何か哀しいような切ないような、何かが押し潰されるような窮屈さを感じて、やり過ごせなくなる。ほっそりとした輪郭の中心の鼻は割と低く、目はぱっちりと大きい。その目はまるで人の心を見透かすためにあるような大きさだった。化粧気がないせいか地味な顔立ちなのだけど、彼女を見過ごすことはない。そもそも、平均を比ぶべくもないが。 休日の昼間のレストランは予想通り客が少なかった。これがファミリーレストランならばまた話も違うのだろうけれど、星野は町の外れにある静かなレストランを選んだ。そこは有美(ウミ)の話に聞いた店だったのだけれども、彼女の話では彼女と同年齢ぐらいの女性もよく訪れるようだったから趣味に合うかもしれないと踏んだのだ。店を選ぶなんてことも随分としばらくぶりの話だった。 「何でご飯を奢ってくれようとするの?」 遡良は席についてコートの袖から腕を抜きながら尋ねた。 「わたしたち、友達?」 そう続けた。語調はいたって真剣で、茶化すところがない。 「二回会って、一回電話した」 「ねぇ。これは三回目のデートのつもり?」 「別にそういうわけじゃない。そんなつもりないよ」 「そう。なら、よかった」 笑いながら、首元を覆うようにカウガールのように巻いていたマフラー代わりの大判のショールを外しながら、満足そうに言った。目を瞑りながらするその仕草が小さな子供か、あるいはこれからするすると黒いスウェットもその中に着たTシャツも、スカートもタイツも、その下で直接皮膚に触れる小さな薄い布までをもするするすると間断なく脱いでいってしまって事も無げに後ろ頭で髪を解いてはゆっくりとまぶたを開いてこちらを見つめるかもしれない。そういう風に見える。そして裸のまま深く椅子に腰掛けた遡良の皮膚は軽く粟立っている。薄い乳房の表面も粟立っている。透き通るような桜色の突起も。 「好きなのを頼んでいいの?」 黒いスウェットの袖を少し捲くり上げながら彼女は言った。 「いいよ。好きなのを頼みなよ」 そう言うと彼女は開いたメニューに顔を突っ込んでしまいそうだった。少し迷いながらも割と簡潔にオーダーを決めて、それをウェイターに告げた。星野も告げた。 「星野さん、何だかオシャレな場所を知っているのね」 それは訝しそうに発せられた。 「知り合いにね、聞いたんだ。来たのは初めてなんだけど」 「やっぱり、そうだと思った。だって挙動がおかしいよ」 「君は落ちついてるね」 「だってわたしいつも一人で行動しなくちゃならないし。落ちついていなくちゃならない」 「両親は忙しいの?」 「お母さんのことだけじゃなくて、それ以外でも。さ」 遡良はとても意味深な言い回しをした。星野はもちろんそれを察した、シャツのポケットから煙草の箱を取り出して尋ねた。 「煙草を吸ってもいいかな?」 「あ、いいよいいよ」 星野は煙を深く肺の奥深く吸い込むと、薄く硬い唇をとがらせるような恰好で吐き出す。空気の流れを考えて彼女には吐きかからないように。彼女はそういった一連の喫煙の動作を物珍しいという風でもなく眺めていた。視線を逸らさずに。 料理が運ばれてくるとふたりは無言のまま食べ始めた。とはいえ、今は昼間。料理もコース料理などではなく普通のランチメニューだ。シーフードリゾットにパンとスープが付いて簡単なレタスとトマトとキュウリだけのサラダも付く。今度は星野が気付かれないように努めながら彼女が食事する姿を盗み見ずにはいられなかった。休日だというのに他のテーブルに客の姿はなかった。正午の日差しはまどろむような穏やかさで、刺々しい確執を忘れさせるようだった。 星野が食後のエスプレッソを遡良(ソラ)がオレンジジュースをそれぞれ飲んでいた時、彼女は突然喋り出した。 「あのさ、文章書いて暮すのたいへん?」 喫煙の手を止めて、彼女の顔を見る。 「どのくらいたいへん?わたしには無理かな?」 「どうやってなった、星野さんはどうやったの?他の人はどう、知ってる?」 星野はテーブルを挟んだ彼女の目を乗り出すように見つめた。 「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って。どうしたの一体?ねぇ、大丈夫?落ちついて」 「例えばさ」 彼女はそう言うと隣の椅子の背にかけていた横長の布製の鞄から一冊の雑誌を取り出した。 「これはどうやったの?」 遡良の目を見つめても彼女は至って真剣だった。星野はもしかしたらと疑いはしたが、どう見てもその瞳の輝きは真剣そのものだった。星野は黙っていた。黙って吸いかけの煙草を色鮮やかな花を模した灰皿で押し消した。 「おねがい、知りたい」 遡良は懇願するように言った。 大きく溜息を吐いて、それからゆっくりと小さな声で絶望的に答え出す。 「…コネ」 「コネ?」 「そう。出版社に知り合いがいて、その知り合いのまた知り合いが俺の噂というか暇をしてるという話を聞いて連絡してきたの」 今煙草を消したばかりなのにまた新しい煙草に火をつけ、深く吸い込んだ後で机の上に見開きで広げられた雑誌を指でトントンと叩き、言った。 「はじめに言っておくけどこういうもので食ってくつもりならばこんなものひとつ書いたって無理だよ。こういう類のものであれば最低十本、月にコンスタントに十本はないと。それでも全然最低限の暮しだ。多分アルバイトも必要になるだろうね、部屋なんかもひどいだろうね。今の十本っていうのも俺が勝手に考えた数字だからね、実際はもっとだろうね。はっきり言って最低だと思うよ、楽しいことなんかないし、書くことは辛い。でも無理して書かなきゃならないし、書けなきゃ終わる。締め切りも満足に貰えない、無限地獄のようなリテイク、無いに等しい睡眠、底辺のような生活」 彼女はショックを受けたのか、しばらく黙っていた。勢いに圧倒されたのかもしれない。 「…なんか、諦めろって言われてるみたい。なんか、そういう風に最初から、何もはじまる前から。ずるいよ」 「何で、ずるい?」 「…ずるいよ。そういう風に言われたら何も言えないじゃない。わたしには、何も言えないよ」 「もちろん、そういう目的もある」 「わたしが簡単そうに言ったから怒ったの?」 「いいや、そういうわけじゃないよ。実際俺は簡単に書いてる。同業者に申し訳無いぐらいだ。何の努力もしないで、それで連載が終わらない。これ一本しか書いてない」 「生活していけないんじゃ?」 「だから、貯金が」 星野ははっとして、また大きく溜息を吐いた。何をやっているんだろうか、この子はまだ中学生だ。それを痴話喧嘩のようにムキになっていた。男女の、すれ違いの縮図。もしくはジェネレーションギャップ。それとも単に素直じゃない。そっと手を上げ、ウェイターにコーヒーと告げた。彼女のグラスは汗で濡れそぼっていた。中はたいして減りもせずに。 「簡単には言ってないよ、わたし」 「知ってるよ」 「うそ。わたしが子供だから怒ってんでしょ、簡単に自分の仕事をやれるみたいに思っているから。知らないけど、だけどそれぐらい分るよ、大変なことぐらい。知らないけど、わたしだって何も知らないわけじゃなんだから。だけど、だから訊いてるんじゃない。誰も暖かい目で見守って欲しいなんて言ってないでしょ、星野さんだから訊いてるんじゃない。星野さんは、メールのときからそういう人だったでしょ。だからわたしは嘘だって言ってるんだよ。勝手な想像してたわたしがいけないんだろうけど、だから嫌だったんだよ、会うの。子供だからって馬鹿にされるんだもん」 「…ごめん、違うよ」 「違わないよ」 運ばれてきたコーヒーにも手をつけない。湯気がもうもうと高い白塗りの天井まで昇り立ち消える。天井でゆっくりと音もなく回転するファン。 「あのね、俺が言っていたのはまったく個人的な感情のこと。だから君のことじゃないよ。君が子供だからという理由で君を軽んじたりはしない。そういう風にはメールに書いてなかった?」 「わたしの歳は書いてないもの。むしろ星野さんは自分と同じ歳ぐらいに思ってた節があったよ」 「そう?」 「そうだよ」 遡良はたっぷりと汗をかいたグラスを引き寄せ、縁の中を円を描いて転がるストローを唇で追いかけてようやく捕まえた。艶と量感のある唇で勢いよく挟み込む。ストローの中をオレンジ色の液体が通り抜けてゆく、唇に吸い込まれてゆく。 「俺が前に渡した電話番号を書いた紙、まだ持ってる?」 「持ってるよ。どうして?」 「いや、携帯電話に登録して紙は捨てたかな、と」 「ううん、まだ持ってる」 彼女が鞄の小さなポケットから例の紙切れを取り出したところを見計らって、星野は彼女の手許を指差した。 「それ持って古本屋の百円ワゴンの中を覗いてみな」 コーヒーはとうに冷めて、砂糖も溶けない。 (→)
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