Like a Little Lyry Girl
(ライク・ア・リトル・リリ・ガール)

第2話 <4>




岩井市 エッジ







 夕方、電話が鳴った。昼間にうるさく電話が鳴ったのではじめは取る気にならなかったが、それでも二十コールぐらいでようやく受話器を取った。
 「もしもし、星野ですが」
 咥え煙草のまま、電話機の傍にある灰皿に灰を落とした。余韻のように指で煙草の中ほどの一番巻きが堅いあたりをトントントンとせわしなく叩く。
 「あのさ、星野さんの家ってどこらへん?あ、遡良ですが」
 受話器は無邪気で溌剌とした声を耳に響かせた。その瞬間思考が固まる。
 「遡良さん?ああ、君、どうしたの」
 「だから、家」
 「俺んちなんか知ってどうすんの?」
 「わたし今こっちの町にいるんだよね」
 「こっちの町?どこ?」
 「商店街の、『ブッククィーンズマート』の前?そこでアイス食ってる」
 「アイス。アイスクリーム?『アンドエニモア・アイスクリーム』?」
 「そう。そこでピスタチオとチョコミント食ってる」
 「ピスタチオとチョコミント?」
 「そう。ピスタチオとチョコミント」
 星野が『ブッククィーンズマート』と『アンドエニモア・アイスクリーム』の間に行くと、道のやや『ブッククィーンズマート』寄りに遡良(ソラ)は立っていた。またいつかのように難しい顔をしていた。日の暮れ始めた商店街で行き交う自転車や通行人の向こうに彼女はジャンパースカートの襞を揺らしていた。その濃紺は黒に染まりはじめ、日の陰りとともに上着から覗く白いブラウスの襟をも暗紫色に染めていった。緩やかな風に流れる彼女の髪はまるで青毛の馬のたてがみのように揺れた。ビルの影から出でた闇、あたり一面全てが紺碧に支配されはじめる、その隙間のような時間。彼女はそれを見つめ愛でるかのように、こちらを見つけた瞬間に笑みを零した。
 「どうしたの?」
 「…寒いです」
 息せき切って駆け付けた星野に向かい彼女はそう言った。
 そこから無言のまま五分ほど歩いたふたりは先導する星野が玄関の鍵を開けて扉を引くと彼女に向かい、「どうぞ」と言った。彼女は「どうも」と言った。

 熱いコーヒーに牛乳を注ぎそのマグカップを遡良に手渡すと、受け取ったそこですぐに口に運んだ。しばらく体の中にそれを流し込んでいた。
 星野は無理に尋ねようとはせず彼女に背を向けてテレビのチャンネルを繰っている。遡良は星野の背面にあるガラステーブルの更に奥にある二人掛けのソファに座り背もたれに身を預けるような恰好でクッションを腹に抱いていた。
 「あのさ」
 彼女はいつもその言葉で切り出した。少ないながらも何度か言葉を交わしただけで、その傾向は顕著に現れる。その言葉は合言葉のように星野を振り返らせた。
 「読んだの、『不燃症』」
 「そう」
 「小説書いてたんだ」
 「まぁ、一度だけ」
 「これは?『枕ランブリングマン』」
 そう言ってナイロン製のリュックサックのジッパーを開けて、中からハードカバーの本を取り出した。星野は驚いた。
 「それ、買ったの?簡単には見つからないはずだぜ?」
 「うん、探した。値段はそうでもないけど、発見頻度はレア級だった。『不燃症』はさすがというか、どこの古書店のワゴン見ても百円で唸るほど置いてあった」
 彼女は腹の上のクッションの上に置いていた手で髪を梳るようにし、それから短い丈のジャンパースカートから伸びた素足の太股を手の平で摩るようにした。
 「わたし、知らなかったな。これ。小学生の時だけど、名前ぐらい知ってそうなものなのにね。すごかったんだよね、当時。十六週連続一位だよね」
 「よく調べてんだな」
 冷静に言い放つ。煙草に火をつけ、一杯になったガラステーブルの上の灰皿の中の吸殻を一気にくず篭に捨てた。くず篭から灰の煙が立ち昇る。微粒子が舌に苦い。
 遡良は抱えていたクッションを隣りに捨て、身を乗り出すように星野に言った。
 「わたしね、分ったの。何で星野さんがあの時怒ったのか。だからわたしは…」
 遡良の言葉を遮るように星野は立ち上がった。
 「悪いけど、帰って。そういう気分じゃないんだ。そのスカートに手突っ込まれて無理矢理下着抜かれて取り返しの付かないことされたいか?教えてやろうか、俺がどういう気分か」
 「…え?」
 「あのね、そういうことが起こらないとでも思ってたわけ?俺ははじめからそのつもりだったよ。誰だって機会を窺ってただけだ、男ならば皆そうだ」
 彼女はこちらを憮然とした表情で睨むように見つめたままだった。
 「分った、帰る。いいよ、もう。馬鹿にして」
 そう言うと立ち上がり、リュックサックを背負った。リュックサックは腕を通す部分のアジャスターがいっぱいまで伸ばされてナイロン製の袋がだらしなく腰の位置にぶら下る。
 星野はそのスカートからすらりと伸びた足が歩き出すのを見ていた。制服と同じ紺色の長靴下が玄関までどたどたと歩いた。見送る恰好で彼女の背を見つめていた。玄関でスニーカーを履くため前屈した彼女の後ろ姿を見ていた。スカートの奥へと続く青白い足の根元が僅かに未知のまま、星野はただ最後まで見送った。

 その週末、訪ねて来た有美(ウミ)と久々に交わった。
 彼女とは実にもう切れて三年になったがその三年間も彼女は星野の家に通い続けたし、彼女は星野が引っ越しても新しい家で彼と交わった。そういう間柄も徐々に疎遠になりつつあったのが最近だったが、ここにきてふたりは交わった。
 それは彼女が素足にスカートを履いていたからに他ならなかった。もし普段のようにパンツ、しかも野暮ったいジーンズを履いていたりすれば話は違ったはずだった。もし有美が気の強い女であったらまた話が違った。
 星野はおくびの拍子に胃の中の内容物が一気に噴き返して逆流してしまうような、そんな感覚に襲われていた。それは待っていた。もう、いまか、いまか、と。それは今にも待ち望んでいるようだった。炉の中の騒ぎは端から見れば平静そのもので、なかなか気が付きはしない。そういうものなのだ。だからいつも手遅れになる。夜が深まる。<<悪い夢>>が星野を脅かす。
 瞬間、星野の中に鮮烈な何かの考えが頭をもたげ、弾ける。スカートの中に手を入れ、下着を無理に引き抜いて準備もままならぬまま押し入っただけでは足らない。”もっと、取り返しのつかないことをしなくては”。”もっと、もっと、完全に取り返しのつかない、ひどいことをしなくては”。”この女を、とりかえしのつかない女にしなくては”。
 「ちょっと、ホシ」
 有美の悲壮な叫びで、星野は瞬間的に我に返った。有美はベッドに仰向けのまま顔を覆って泣いた。ずっと長い間いつもしてきたように、星野に気を遣わせないように音を立てずに泣いた。ひっそりと、しとしとと。勢いを欠いた長い雨のように。
 暫くして泣き止んだ彼女は足元に丸まって転がっていた下着を拾い上げて、星野の部屋を出て行った。長い間交渉がなかったもので、避妊具なんて用意がなかった。彼女は帰り道、そういう不運を呪った。星野の気持ちは分かりきっていたので、そう思うほかなかった。

 パソコンのワープロソフトを立ち上げて今長い文章を書いている。そして文章を書いていくと必ず欲情に近い感覚を感じた。体内で渦巻いている<<悪い夢>>はその間猛威を振るい、星野を悪行や負の感情へと導いた。どれだけ抗おうと全ては無駄に終わった。だが、そうした中で星野はひとつの手段を見出していた。それが<<書き出し>>と呼ばれる作業だった。
 まず星野はペンを取り、今となってはワープロに代わりはしたが、帳面の前に座した。その手をもって<<悪い夢>>に暴れるだけ暴れさせるのだ。不思議なことにこの儀式に没頭すると<<悪い夢>>は星野の足を支配して街へと出て暴れたりはしなかった。座したまましばらく経つと意識が別の方向に向いてくるのが分る。手にだるさが現れる頃星野は下半身がムズムズとし始めて、座っていられなくなる。体の中の黒い澱のようなものが全て昇華されてカスのように性的な興奮が残る。中学生や高校生の頃は実に夜毎三回から七回の自慰行為に耽っていた。それというのも全て<<書き出し>>の弊害と言える。
 星野はワープロソフトを閉じるとパソコンを終了させる間もなくベッドに寝転びベルトの金具を外し、ジーンズとトランクスを一緒に腿まで慌てて下げた。目を瞑り、暗幕のスクリーンに浮ぶ有美(ウミ)の白く細いあばらの浮き出るような肢体を次第に適度に肉付かせてゆく。元から自然に色素の薄い茶色い毛が色濃く深くなっていけば、やはり男の子のように茶色く短い髪も黒く太く健康的になりながら長さも肩まで伸ばしていった。有美も幼く甘ったるい声を発したが、それよりもうんと幼くかつ毅然とした感じに声色を変えていった。蛇のように体をくねらせては血管の透ける皮膚の下で自外性器の激しい出入りにのたうつ彼女の血の舞う快楽の蠢動を思い描いては星野は早々と手短に果てた。
 星野は「<<悪い夢>>め」と息も整わぬうちに呟いた。


 三時間目と四時間目の間の休み時間、遡良(ソラ)は外表紙に「百円」と記入されたシールの貼られたハードカバーの本を読んでいた。その時、教室の中は蜂の巣を突ついたような騒ぎだった。前の時間の授業中にちょっとした事件が起きたものだから教室の中では生徒達が狂気乱舞していた。それは普段は関心なく勉強を続けるような優等生でもちょっと騒がずにはいられないような事だった。教員達は忙しなく走りまわり生徒達は喚くか囃し立てるかいずれかをした。いくつかの机は倒れ、椅子も倒れる。その事件の直後の教室だった。
 「遡良、ちょっとこっち来なよ」
 ひとりの女子生徒が呼びかけた。遡良は顔を上げただけで、また本に視線を戻す。
 「いいじゃん、別に。無理に誘うなよ」
 髪にパーマをかけた遡良のふたつ隣の席の女子生徒は机の上に立て掛けた大きな鏡を覗き込みながら言った。ビューラーで上げた睫毛にマスカラ液をたっぷりとつける。喋った拍子に瞼をコームが転がり、彼女は大きく舌打ちを打った。ポーチの中から綿棒を取りだし、修正を始める。もうひとりの女の子が続けた。
 「あたしたちこのまま『川向こう』行くけど、あんたどうする?」
 数人の集まりの中では一番地味に思えるが、それでも明るい髪をした女の子が言った。
 「これから?」遡良は尋ねた。
 「そうよ、こんなのフけても問題ないじゃん。どうせこのままグスグズ残されてもムカつくし」
 彼女は雄弁に語った。また別の女の子も同意した。
 「那美、いいって」
 化粧を終わらせた子は叱りつけるように高圧的に言う。
 「だって、いいでしょ」
 「いいって、別に誘わなくて」
 更に強く言った。すると他の子たちも同意した。
 「でも」那美(ナミ)は続けようとした。
 「いいよ、那美。ありがとう」
 遡良は言った。
 「すっごぉい、ありがとうだって。意味わかんないし」
 そう言って化粧道具をかたしながらおどけるように席を立つ。
 「さっすが、不思議」
 口々にそう言いながら彼女たちは教室を後にした。
 最初のひとりが出て行くと続いて他のグループの男子生徒も女子生徒も何人もが連れ立って出て行った。次第に教室には人がいなくなり、残された生徒は誰が始めるともなく「ヤバイ」だの何だのと教室を出て行った生徒を揶揄し出した。遡良は本を読み続けていた。

 携帯電話が鳴り、遡良はそれに出た。那美からだった。
 「あの後どうした?」
 「うん。結局すぐに帰されたよ」
 「そう。今どこにいるの?家?」
 「うん、そう」
 「今から行っていい?」
 「いいよ」
 玄関のチャイムを聞いて扉を開けると那美は手にはドーナツの箱を持っていた。遡良の部屋に上がるとふたりはそれを食べながら紅茶を飲んだ。那美は何か言いたそうにしていた。
 「あのさ」切り出す。
 「ごめんね」
 「何が」
 「無理に誘って嫌な思いさせたかと思って」
 「ううん、別にしないよ。わたしこそ。いつもありがとう」
 「別に幡谷さんのことが好きとかって言うかさ、あの人派手だし押しが強いでしょ。だからさ」
 那美は全てを言い切れない。
 「今日は何したの?」遡良は尋ねた。
 「うん。今日は幡谷さんの知り合いの男の子たちとカラオケした」
 「どんな感じの人?たのしかった?」
 「幡谷さんと同じような、まぁ、派手な。というか、すごい馴れ馴れしくてさ。カッコいいのはいいんだけど魂胆見え見えでさ、ちょっと」
 「魂胆?」
 きょとんとした表情で訊く。那美はそれに答えた。
 「遡良は分らないかもね、あんたそういうの鈍いもん。気をつけなよ、本当。それしか頭にないような男も多いんだから」
 遡良は察したように言った。
 「だいじょうぶよ、わたしは。だって『不思議』だもん。誰もわたしの事なんてそんな風には見ないでしょ」
 「幡谷さんたちの言うことは気にしないほうがいいよ」
 「いや、そういうわけじゃないの。最近ね、つくづく思うのよ。ああ、やっぱりわたしはズレてるんだなぁ、って。そして無力なんだなぁって。同じことしてても感じ方が違うみたいだし、人に思ってることも言いたいことも伝えられないし。わたしには誰かをどうにかすることなんて出来っこないんだ、きっと」
 少しの沈黙の後、那美は尋ねた。
 「遡良は好きな男っていないの?あんたからそういう話聞いたことないんだけど」
 「よくわからない」
 遡良はそう答えた。
 「はじめてかも。そういう風に答えたの」
 那美は言った。