Like a Little Lyry Girl 十二月になって十日ほど経とうとしていた。街ではクリスマスのムードが漂い商店街でもクリスマスソングが流れている。夕方には主婦や学生そして恋人達が歩いていた通りにも、それを過ぎたこの時間にはめっきり人の姿が見えなくなる。商店街には夕方のようなクリスマスソングもなく、唯一音を発していたラーメン店からも音楽が途絶えて久しい。今、ふっと煙草の自動販売機の灯りが消えた。 風が吹くと商店街のシャッターが蛇腹状の体を揺らし、放浪者をせせら笑うように鳴る。遡良(ソラ)は首をぐるぐると覆ったマフラーを口元まで引っ張り上げるようにし、さらに肩をすくめて身を縮めるようにして通りを歩いた。風の吹いてくるほうへと向かい歩いていた。 通りを抜け切ると視界が開ける。そこは漆黒の入り口だ。眼前に巨大な山のようなものが見え行く手を阻む。土手だ。土手を上がったところで深い緑色のコートのポケットから携帯電話を取り出して、耳に当てた。 「はい、星野です」 電話の向こうの声は言った。 「わたし、遡良です」 彼は驚いたようで、しきりに今の時刻のことを言っていた。それを無視するように遡良は喋り出した。 「あのね、わたしね、星野さんの書いたものを追っかけていたのね。星野さんが小説家だったって聞いてから、『不燃症』を古本屋のワゴンの中で見つけてから、背表紙に星野哲生の名前を見つけたときすごく驚いたのね。そして、すごく納得したの。それで、読んだのね。それも夢中になって読んだ。わたしは割と本を読むほうだと思うんだけど、だからそのせいかそうでないのか夢中になって読んだ記憶が希薄なの。すごく驚いた。驚くようなことが書いてあるわけでなく、わたしは自分に驚いた。それからなの、星野哲生の『不燃症』が売れていたのを知ったのは。ネットで調べたら簡単に分った。大変なのはそれからだった」 遡良は薄い手袋をした空いたほうの手をコートのポケットに突っ込んで、スニーカーの底で枯れた草を踏みながら体を反転させて少し歩き出した。目線は足元を見つめていた。 「古本屋を探し回って『枕ランブリングマン』を見つけた。値段は四百五十円というあたりだった。ネットの評判はとても悪かったけど、わたしは欲しかったのね。それからね、あれもとうとう見つけたよ。『間違いのない眠り・桎梏』。『結界』のバックナンバーを探すのがとても大変だった。わたしはずっと探していたんだ、大きな街の古書店も回ったよ。それで見つけた」 歩きながら土手を降りはじめた。 「そうして、最後に探していた『出歯COM(デバコム)』のバックナンバーも見つけ出して読んだ。それを星野さんに言いたかったの」 「あれを読んだのか?」 彼ははっとして強い語調で問い質した。 「読んだよ」 「あれは俺に対して悪意を持った奴が俺を落とし入れようとして書いた、だから…」 「ねぇ、星野さん?」 遡良は構わず続けた。 「あのね。うちはお父さんがいなくて、だからわたしはいつもひとりなのね。お姉ちゃんがいるんだけど結婚しちゃったからほとんど会えないの。でもね、別に会いに行こうとは思わないの。お姉ちゃんはわたしのことがあんまり好きじゃないんだ。わたしの言うことに耳なんか貸さないもの。お母さんもお姉ちゃんのほうが好き。おそらく、この世界にわたしのことを好きな人なんていないんだと思う。極端に排除しようと嫌ってはいないかもしれないけど、少なからずわたしがいることで誰かが嫌な気分になったり、そういうことはあるんだと思う。でもね、わたしは”そう”しようとして”そう”なわけではないの」 たまらず星野は彼女を呼びかけた。それは届かない。 「あのね。わたしはずっとひとりでも大丈夫なように強くなりたいと思っていた。誰の迷惑にもなりたくないし、誰の荷物になることも嫌だったの。ひとりで生きていけるぐらい強くなれば誰かに邪魔にされて辛いと感じることもないし、誰と話が合わなくたって悲しくないでしょう」 「それで小説を書いていたの?」 星野は核心を突くように尋ねた。 「星野さんが『不燃症』で賞をとったとき、じゅうぶんに大人だった?」 「二十二歳。当時は最年少だったね、今は女子高生で受賞した子がいるじゃない、だから違うけど。ぜんぜん大人じゃなかった、それは今も変わらないよ。私たちには単純に大人や子供と分け切ることの出来ない曖昧な稜線しか手持ちがなくて、だから一概には言えない。いい大人が寂しくて泣いたりもする、かと思えばわざわざ人と離れてすすんで淋しくなったりもする。けど、君が聞きたいのはそういう話じゃないんだろう」 「星野さんはわたしと同じ歳ぐらいの頃、何を考えていた?」 「自分が特別だと思えて仕方なかった。肥大する自意識を持て余し、それにあえいでいたよ」 「今は違う?楽になった?」 「分らない。基本的には変わってないんだと思う。でも、もう一度再起をかけて小説を書こうとも、表現しようと思うことも出来ない」 「大人になると苦しくなるの?」 「ある面では。その代わり、子供の頃に苦しかったことの大半はどうでもよくなる」 遡良は黙って聞いていた。その後で話し出した。 「ねぇ、星野さん。わたしはお話を書いているよ。もう少し経てば人と理解し合えないことは気にならなくなるかもしれない、けど、それがなくなりはしないんでしょう?わたしの存在が人を嫌な気分にさせたり、そういうのは気にならなくなっても、わたしは嫌な気分を与え続けるんでしょう?誰にも必要とされないことが平気になっても必要とされないままだし、わたしが気にしないようになっても、わたしが強くなっても、女の子の発するわたしの悪口や男の子の発するわたしに向けたいやらしい冗談はなくなりはしないんでしょう。わたしが気にしないのとわたしが気にならないのは違うことだよ。ねぇ、聞いていい?」 「何を?」 「星野さんは本当にわたしのスカートの中へ手を入れようと考えているの?」 答えに窮して黙っていた。何かを言おうとしたが声が詰って出てこなかった。 「いま…どこにいるの?」 星野は尋ねた。 「自分の部屋」 遡良はそう答える。 川を渡す遠くの高架橋の上では赤い蛍のようなテールランプがいくつも闇に滲み、そのひとつの赤い灯りが静寂をしばし切り裂くように高架を駆け抜けて行った。救急車の叫びは中に乗せた患者の苦しみのように感じた。それが小さくなっていって灯火の消える最後の瞬間を想像した。ビルの明かりは水面にゆらゆらと緩やかに揺れ、それは風が吹くと恐ろしいぐらいに流れは速まった。 遡良は土手を下り草木の荒れた野原を歩いた。草木の高さは膝から高いものになると腰が埋まるほどだった。どれも乾いて触れただけで崩れてしまいそうだった。乾きに乾いて鋭利になっていて、もしデニムスカートの下にタイツを履いていなかったら足が切れたかもしれない。 沈黙の間じゅう、星野はまたも胃の内容物が逆流するような感覚に襲われ、小さなおくびを繰り返していた。胸の奥で何かが騒いでいた。もうずっと、電話を受けてから。 「ねぇ、遡良さん。本当は今どこ?」 「だから、部屋だって」 星野の頭をぐるぐると何かが回る。額の辺り、宙に浮んだ経験則の本を念力で繰る。方耳に受話器を当てながら、必死でページを繰っていた。過去の嫌な思い出や経験がいっしょくた渾然一体となって警鐘を鳴らした。この感じに覚えがある。チカチカとフラッシュライトを焚かれたような閃光が目の奥で瞬き、更に奥では鈍痛が鉛のようにドスンと響く。 「…『川の塔』」 星野はそう呟くと受話器を放りそのまま玄関で靴を履いて部屋を飛び出した。走り出す。角を曲がり、商店街を疾走する。風が吹いて商店のシャッターが星野の滑稽さを嘲笑するように鳴った。”どこへ行く?”『川の塔』だ。”どうして?”嫌な予感がする。”嫌な予感とは?”何かの顔がちらつくのだ。”それは誰だ?お前にすべからく害をなす、それは誰だ?”誰だ?”お前の希望をすべからく摘み取る、それは誰だ?”それは、それは。それは? 「丸岡」 星野は大きく叫んだ。 車がスピードを出して走る高架の、その隅を、星野は叫びながら走った。このスピードに取り残されないように。 電話の向こうで通話が切れたことを知った遡良はそのまま携帯電話をコートのポケットにしまい、背の高い草木が茂る白色の草原の真ん中にそびえる『川の塔』の足元に立ち星空を見上げた。顎を上げて顔を天に向ければ乾いた空気の中、暖かい光のコロンが降り注いでほのかに香るようだった。首元のずり落ちそうな白いマフラーを再度巻き直す。わずかに開いた唇から白い息が漏れ続けた。風が吹くと草木は一斉に棚引いた。耳元で囁かれるように風が空気を切り裂いた。 一際背の高い種類の枯れ草が群生するその向こうに一瞬動く人影を見た気がして、月明かりを頼りに凝視する。息を呑んでただ凝視した。ゆっくりと音をたてないようにコートのポケットから携帯電話を取りだして音をたてないように二つ折りの電話を開く。液晶画面のバックライトで何かが映し出されるかと照らしてみたが、僅かに手許が明るくなったのみだった。それがいけなかった。遡良(ソラ)の居場所を正確に把握したその<<影>>は一息で距離を詰め、彼女を抱き竦めた。悲鳴は音にならず呼吸が空気を切っただけだった。彼女は<<影>>を振り払って逃げようとした。<<影>>はそれほど力が強くなかったし、背も遡良とさほど変わらない。体躯はがっしりというより太っている。振り払うようにでたらめに暴れた。声は出さなかった。月明かりで一瞬<<影>>の顔が見えた。丸いフレームの眼鏡が光った。その奥に鈍く光の差さないどんよりとした目付きが覗いた。それは遡良を絡め取るように見つめていた。少しだけ彼は笑っていた。 背を向けて一気に走り出そうとした。だが<<影>>は彼女のマフラーを掴んだ。マフラーは幾度もずり落ちそうになっていたけれども、やはり片方がずり落ちて<<影>>の手の中だった。それを力まかせに引っ張る。首がぎゅううと締まって苦しい。心臓の鼓動と相俟って息が詰りそうだった。窒息してしまいそうだった。それでも今がどれだけ苦しくても必死に振り解かねば。マフラーと首の隙間に指を入れて、緩めようとしていた。 「すっ」 遡良は途端に息が吸えなくなって、声とも音ともつかないものを発した。空呼吸のように何も入ってはこない。唇からよだれが垂れ落ちた。頤(おとがい)の先で糸を引く。膝が震えて力が入らない。 マフラーの先を持たれていたせいで、反転するような恰好で彼女はその場に仰向けに倒れ込む。目は虚ろだった。そこにきて急に呼吸は楽になっていた。<<影>>は安心したのか力を緩めていた。だがまだマフラーの先を掴んでいた。収まりきらなくなった涙が涙袋を伝い、その起伏を越えたところで留まる。厚ぼったい唇は半開きのまま過剰な呼吸の白い息が涙とともに視界をぼやかしていくほどだった。その瞬間に張り詰めていたものが途切れて、噛み締めていた奥歯から力を抜いた。途端に諦めに似たものを感じてしまった。仕方ない、彼女はそう思った。携帯電話もどこかに落とした。 <<影>>は遡良の履いていた古着調のデニムスカートの中に手を差し入れ、太股の付け根付近に指を立てて力を込めた。それから一気にタイツを鷲掴みにして夢中で引き下ろした。タイツは足にフィットしていたので、目視でもっと奥のゴムの口に手をかければ案外と楽に脱がすことが出来たが彼はそうはしなかった。乱暴にした割にはあまりタイツを引き下ろすことは出来なかった。膝よりも十センチは上で留まっていた。遡良は<<影>>を見ていた。ジャージのようなズボンを膝まで下ろしていた。覆い被さる厚みのある体がつくり出した暗闇のその奥の奥でまるで悪意そのもののように蠢くものを遡良は見た。抑えきることの出来ない膨大な悪意は、その自らの身体そのものという器を戦慄(わなな)かせていた。闇の向こうではときおり暗紅の禿頭(とくとう)が遡良の開かれた膝の中軸を窺がい覗いていた。パグ犬がその身を震わせてひどく嬉しそうに笑った。 熱い息が頬に絶え間なくかかる。<<影>>はコートの胸部を盛りあがらせるものにはまるで興味を示さず、ひたすら屹立する悪意を自らの手で鎮めようとしていた。ときおりその先は遡良の開かれた股の間で股関節の辺りまでずり下げられたとても薄くて心許ない布の山襞をかすめていった。視線は股間に降り注がれ、ときおり遡良の顔と交互に見た。フェンシングの剣の先がそうするように狙いを定めていたのかもしれない。月明かりが股の間を照らし、その白地に反射した。 <<影>>は遡良の足の付け根のくぼみや下着の上やへその穴、ずり下げられた下着からわずかにのぞく体毛、それらに撒き散らした精をそのごつごつとした厚みのある手でなすりつけ始めた。皺が深く刻まれた掌が白磁器のように白く桃のように柔らかい肌の上を通るとそこはまるで蛞蝓(なめくじ)の這った後の粘液のようだった。優しく撫でるのではなく、自らの精を塗り込むような仕方だった。体毛に絡め取られた粘液の塊が朝露のように光った。<<影>>は特に念入りに下着の上から揉み込んでいた。飛び跳ねた雫は黒いタイツやデニムスカートにも付着していた。 星野は土手を駆け下り、肩で息をしながら恐る恐る草原を進んだ。 「遡良」 『川の塔』のすぐ足元で彼女は仰向けに寝そべったまま言った。 「…よくここが分かったね」 膝までずり下ろされたタイツ姿の彼女を見たとき、気分的には目を逸らしたくなった。その少し開かれた膝の隙間を縫うようにして見たとき、目に入った下着の汚されかたに胸が痛んだ。瞬間、星野は絶望的な気分になる。黒いタイツに飛び散ってべったりと付着する粘液は嫌でも見覚えのあるものだった。星野はしばらく口がきけなかった。ようやく開いて出てきた言葉はひとつだった。 「丸岡」 呆然と我を失っている星野に遡良は言う。 「星野さん、悪いけどコンビニで水と下着とタオル買ってきてくれないかな」 買ってきたペットボトルの水をタオルに含ませ腿や腹を丁寧に拭き、古い下着とタイツをコンビニの袋に入れて口を縛った。コートや髪に付いた土を払いもした。 「マフラーとられちゃったよ」 最後に彼女はそう言った。笑ったようにも見えた。 (→)
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