恋する街 ―星影―




佐藤 由香里







 ( 4 )

 今日も早苗と一緒に職員室に来ていた。
 早苗は藤村と楽しそうに話している。でも、本人が言うには、もう藤村のことは何とも思っていないらしい。先日私が言った一言がかなり堪えたんだそうだ。それは私が言った言葉そのものにではなく、それが図星だったことに対して、らしい。

 渡部先生の机の斜め前に藤村の机があって、座って何かを読んでいる藤村を見下ろして早苗が笑っている。ふと早苗がこっちを向いた。私に視線を送って何かを伝えようとしているみたい。何の言葉も発さなかったけど、早苗が何を言いたいのかが私には解かっていた。
「ほら、早く。」
 きっと早苗はそう言ってる。心の中で何度もそう呟いてるに違いないのだ。

 実はあの後、早苗が藤村への気持ちは単なる憧れだったということを告白してくれた代わりに、私は渡部先生が好きだということを早苗に告白した。すると早苗は「協力するよ」とはしゃぎだして、それからはまた今まで通り、放課後の職員室に通うようになった。
 チャンスを窺って告白しろという合図を早苗は出すけれど、私は気が進まない。だって、言ったところでどうにかなる訳じゃないし。

 目の前にいる渡部先生は、今日も相変わらず数学の教科書を睨んでいる。この人は本当に真面目な人だなあと思いながら、私は邪魔しないように隣で大人しくしていた。マグカップに注がれたブラックコーヒーを一気に飲み干した渡部先生は、ふうっと溜息をついて数学の教科書を閉じ、マグカップを持って席を立った。なくなったコーヒーを注ぎに行ったみたい。斜め前にいる藤村が小声で「おい相原、いよいよ告白するのか?」と聞いてきたので、私は怒った表情で藤村を睨んだ。早苗が笑う。藤村も笑う。私も怒った表情を解いて笑った。そしてコーヒーを淹れて戻ってきた渡部先生も「なんだか楽しそうだな」と言ってつられて笑った。特別でもなんでもない風景。でも、こんな日々もあと少しで終わってしまうのだ。

 渡部先生は手に持っていたマグカップを机に置いて椅子に座った。陶器のコトンという音が鳴り、黒い水面に波紋が広がる。マグカップに注がれたブラックコーヒーは真っ白な湯気を立ち昇らせ、職員室内の寒さを強調させている。先生は見るからに熱そうなコーヒーを一口飲み、あちちと呟いて顔をしかめた。
「先生、コーヒー好きなんですね。」
「まあな。相原は?」
「基本的に苦手なんですけど、この前ある店でカプチーノを飲んだらすごく美味しかったんです。甘いのなら大丈夫みたい。」
「へえ。俺はいつもブラックだけど、甘いなら甘いで好きだな。」
「私もいつかブラックを美味しく飲めるようになるのかなあ。」
「そうだな。」
 一瞬の沈黙の後、私達は驚くほどぴったりのタイミングで口を開いた。
「コーヒーの美味しい店があるんですよ。」
「コーヒーの美味しい店があるんだよ。」
 私は驚いて渡部先生を見つめた。先生も驚いた顔で私を見ていた。
 同時に発した声。重なった声の最後の部分が揃っていなくて、それが妙にくすぐったい。
「今度一緒に行ってみようか。学校の近くに俺のお気に入りの店があるんだ。」
 意外にも誘ったのは先生の方からだった。
「うん。楽しみにしてます。」
「俺も楽しみだよ。その店のコーヒーは本当にうまいんだ。」
 私が楽しみだったのは、先生から誘ってくれたことに対してだったのに。やっぱりこの人は「渡部先生」だと思った。本当は違うんだけど、私は訂正しなかった。だって仕方ないから。見当外れな解釈で、一人で勝手に納得しているこの勘違い教師に、私は恋をしてしまったのだから。
 早苗にもその会話は届いていたらしい。彼女は私に満面の笑みでウインクをした。そして声を出さずに唇だけを動かして、私に「頑張れ」と言った。

 しばらくして、早苗が藤村を連れて職員室を出て行った。彼女なりに気を利かせたのだと思う。もしかしたら藤村の提案かもしれない。いつの間にかすっかり日は暮れて、職員室の中は私と渡部先生の二人きりになっていた。グラウンドでは野球部が夜間練習をしていて、煌々と光るライトが真っ暗で見えない地面を照らしている。野球部員の掛け声が、ひっそりと静まり返った職員室に響く。
「そういえばお前、卒業したら引っ越すんだってな。三沢から聞いたよ。」
「ええ、S市に。志望校も全部あっちなんです。」
「高校入試、いよいよ一ヵ月後だな。」
「先生こそ、あと二週間で辞めちゃうんですよね。」
「まあな。でも俺はもともと期限付きの教師だ。」
「そうですね。」
 沈黙が流れた。二人の間に妙な空気が流れる。言うなら今しかないかもしれない。渡部先生はすっかり冷めた二杯目のコーヒーを飲み干し、再びふうっと溜息をついた。私は近くにあった椅子を引っ張ってきて渡部先生の正面に座った。こんなに近くで先生の顔を見たのは初めてかもしれない。目を落として再び教科書に目を通す先生の睫毛は思ったより長く、書いてある内容を口パクで読み進める唇は思ったよりも薄い。指は案外長くて、小柄だけど意外に胸板が厚い。無邪気な少年みたいに笑うのに、こうやって見るとやっぱり大人の男の人なんだなあと思った。
 鼓動が高鳴る。その時が来たんだと、今がチャンスなんだと思う。意を決して、私は口を開いた。
「ねえ先生。変なこと聞いてもいいですか?」
「なに?」
「先生って、彼女とか、いるの?」
「ああ、学生の頃はいたけど今はいないよ。」
「じゃあ、好きな人は?」
 私は先生がいつ気付くのかドキドキしながら質問をした。こんなことを聞いたら解かってしまうかもしれないと思いながら。でも先生は顔色一つ変えずさくさくと質問に答えていく。
「いないけど。」
「ふうん」
「そんなことを聞いてどうするんだよ。変なやつ。」
 そういって渡部先生は、私の大好きなあの少年のような表情で笑った。ああ、この笑顔。私の胸はきゅうっと締め付けられ、息苦しくなった。呼吸が、出来ない。

 考えてみれば、このまま先生が去って私が卒業してしまえば、もう会うことはないんだから、今少しくらい恥ずかしい思いをしても、気持ちをちゃんと伝えた方が悔いは残らないかもしれない。誰かが言った。『やらなくて後悔するくらいなら、やって後悔した方が良い』。確かにそうかもしれない。だったら、私は言わなくて後悔するくらいなら、言って後悔しよう。
「ねえ先生、私のこと、どう思いますか?」
「どうって、素直ないい生徒だと思うけど。」
「ううん、そうじゃなくて。生徒としてじゃなくて。」
「え…」
 一瞬の沈黙。さすがにここまでダイレクトに言えば解かるみたい。
「私、先生のこと…好きです。」
 先生はちょっと困った顔を一瞬して、それから軽く笑った。
「突然どうしたんだよ。勉強や進路のことで悩みでもあるのか?」
 私は乾いた声で笑う渡部先生を黙って見つめていた。私の真剣な視線に、渡部先生も笑うのを止めて私を見る。真っ直ぐで誠実な瞳。その中には今にも泣き出しそうな私が映っていた。
「俺と相原は『教師』と『生徒』の関係だろ?それ以上でもそれ以下でもないよ。」
 先生が瞬きをするたびに、瞳に映る私の姿か隠されて、自分が今どんな表情をしているのか解からなくなる。私は何の言葉も発さずに、ただ先生の瞳の中に映る自分を見つめていた。
「ごめん。今のは教師の俺が言った言葉だ。本音は少し違う。相原をそういう対象で見れないんだ。悪いけど。」
「それは、つまり…」
「なあ相原。気持ちは嬉しいけど、お前はまだ中学生で、俺は教師だ。解かるよな?」
 私は何も言わなかった。言えなかった。ただ先生を見つめることで精一杯だった。
「俺も心当たりがあるから解かるんだよ。俺が中学生の時、みんなが憧れている英語の先生がいたんだ。すごくきれいな先生で、いいなと思ってたよ。でもその人は途中で学校を移って、俺はそのまま卒業した。」
「…何が言いたいんですか。」
「憧れてるだけなんだ。本当に好きな訳じゃない。だからお前もきっと…」
「違います!」
 私の中で、何かが壊れた。保とうとしていた理性も、押さえつけていた先生への恋心も、全部弾けてしまった。
「私はその頃の先生じゃないし、先生だってその英語の先生じゃない。ねえ、どうしてただの憧れと決め付けるんですか? そんなの先生には解からないじゃないですか。単なる憧れなのかどうかは私が一番解かってます! それなのに…」
「相原!」
 先生は言葉を遮って、感情的になっている私を制した。私も呼吸の乱れを整えるため、深呼吸を2〜3回繰り返した。
「やっぱり、だめですか?」
「なあ、あまり俺を困らせないでくれよ。無理に決まってるだろ?」
「それは私が先生の生徒だからですか? それとも私が中学生だから?」
「・・・・・・。」
「先生?」
「…その両方だ。」
 先生の真剣な目は刃物のように私の胸を刺した。そしてそのまま貫いて、私の心に穴を開けた。
「…そうですか。解かりました。」
 私は自分の荷物を拾い、走って職員室を飛び出した。後ろから私を呼び止める先生の声がしたけれど、私は振り返らなかった。もし振り返ったら、溜まっていた涙がこぼれそうだったから。そのまま昇降口を出ると雨が降っていて、傘を持たない私の頬を濡らした。溢れて溢れて止まらない涙を、雨は優しく隠してくれた。

 私は早く大人になりたかった。心も体も大人の女になりたかった。でも実際私はまだ義務教育も修了していない中学三年生で、去年初潮を迎えたばかりの未熟な女。それが真実。いくら大人ぶったって、私はまだまだ子供なのだ。
 多分甘い幻想を抱いていたのだと思う。渡部先生なら、私の気持ちを少しでも理解してくれるんじゃないかって。でもやっぱり私と先生の7歳の年の差は縮めようがなくて、大人と子供という立場も、教師と生徒という立場も変えようがないのだ。解かってた。解かってたけど、やっぱり心に受けた傷は大きかった。


「ただいま。」
 家に帰った時の第一声はそう言うんだということをプログラムされたロボットのように、私は無機質に、無表情で言った。おかえりなさいと返した母の表情が、私につられて曇った。
 自分の部屋に入るなり、私は服も着替えずにベッドに寝転んだ。そしてぼんやりと窓の外に目を向けた。
 空が泣いている。
 降り続く雨は徐々に激しさを増し、スモークグレーの雲は少しずつその色を濃くする。そして背中に星空を隠して、どんどん空の色を変えていく。まるで空まで私の気分に付き合ってくれているように、どんどん暗くなっていく。

 時間が流れていくことをずっと拒んでいた私。毎晩空を見上げて、明日にならないように願っていた私。でも、何もかもどうでもよくなってしまった。早く明日になってしまえばいい。早く二週間が経って、渡部先生なんてどっかいっちゃえ。