恋する街 ―星影―




佐藤 由香里







 ( 5 )

 私はオレンジ色の夕日が差し込む誰もいない放課後の教室にいた。机に突っ伏して、夕焼けに侵食されてしまえばいいと思いながら、ただただ時間の流れに体を預けていた。遠くの方からピアノの音が聴こえてくる。フロアの違う音楽室からピアノの音が聴こえてくるような、とても静かな放課後。

 あれから三日。渡部先生とは一言も話していない。何度か話しかけられたけど、私は何も答えなかった。そんな私を見て早苗も何も言わなかった。私の様子を見て事態を察してくれたのか、それともこうなることを予め予想していたのか。―――多分、後者だと思う。早苗も早苗で、あの日以来私を放課後の職員室に誘わなくなった。きっとこれでいいんだと思う。初恋なんてこんなものだと思う。

 ピアノの音が止まった。隣の教室から数人の女の子の小さな話し声が聞こえる。
 入試を一ヶ月後に控えた大事な時期だから、三年生のほとんどはみんなホームルームが終わるとすぐに帰って、家で勉強したり、塾に行ったりして、最後の追い込みをしていた。本来この時間ならまだ誰かが教室に残っていてもおかしくはないけれど、やっぱり時期が時期なんだろう。それでも私は勉強なんて全くしていなかった。引っ越したくない。あっちの学校に行けば当然知ってる人間は誰一人いない。人見知りの激しい私は、そんな環境の下で上手くやっていけるのだろうか。
 隣の教室の女の子達の声も聴こえなくなった。もう帰ったんだろう。辺りが静寂に包まれる。
 時間は流れていく。空は色を変えていく。私をこの場所に一人取り残したまま。


「何やってんの?」
 静寂を破る突然の声に、私の体はびくんとなった。振り向くと、同じクラスの鯨崎くんが立っている。
「やだ、びっくりするじゃない。」
 努めて明るく振舞った自分が悲しかった。きっと無理して笑ったことに彼は気付いているだろう。鯨碕くんは軽く笑って、教室のドアから一番近い机に腰をかけた。
「で、何やってんの。」
「うん、ちょっと考えごと。」
「そうなんだ。」
 鯨碕くんはとても不思議な人だと思う。仲が良くてよく話すという訳でもないのにこんなに違和感なく話せるし、会話が止まって沈黙が流れてもちっとも気まずくない。勉強ができて女の子からも結構人気があるのに目立つタイプではないし、幼い風貌なのに大人っぽい雰囲気を持っている。掴み所のないクラスメイト。鯨碕くんが髪の毛をかきあげると、夕焼けに照らされて深く赤い色に染まった。
「ねえ鯨崎くん、変なやつって思わないで聞いてくれる?」
「急に、なに?」
「あのさ、先生に憧れることってある?」
「なにそれ。」
「例えはさあ、英語の宮原先生とかどう思う?」
「どうって、好みかどうかってこと?」
「うん。ああいう大人の魅力っていうの?」
「別に俺の好みじゃない。派手だしさ。人気はあるみたいだけど。」
「ふうん。」
 鯨碕くんはCDウォークマンの中のCDを取り替えている。
「私達くらいの年齢って、大人と子供のちょうど中間くらいなのかな。」
「そうかもね。」
 再び沈黙が流れた。外はもうすっかり暗い。
「じゃあ、俺もそろそろ帰るよ。」
「うん、また明日。」
 鯨碕くんはヘッドフォンを耳に当てて教室を出て行った。彼の後ろ姿は、私にはもう立派な大人の男に見えた。



 藤村に社会科準備室に呼ばれたのは翌日のことだった。
「またか? おい相原、追加の課題を出すから放課後に社会科準備室に来い。」
 授業中に窓の外を見ていた私に、藤村は呆れた顔でそう言った。藤村の授業に限らず、ここの所の私はぼうっとしている。渡部先生に言われた言葉が頭の中でリフレインして止まらないのだ。
 準備室に入ると藤村がコーヒーを飲みながら書類を眺めていた。
「おお、来たか。」
 藤村の声は明るかった。怒ってるかと思ってたのに。私は訳が解からなくなる。
「今日はすいませんでした。集中してなくて。」
「まあ呼んだのはそれじゃないんだ。」
「どういうことですか?」
「まあ座れよ。コーヒーでも淹れるよ。」
 藤村はコーヒーカップにインスタントコーヒーを1杯と砂糖とミルクを2杯ずつ入れて、ポットのお湯を注いだ。コポコポと音を鳴らしてコーヒーカップの中が満たされていく。藤村は私が苦いコーヒーが苦手なのを憶えててくれてたのかな。藤村はカップを私に差し出して、ほら飲めよ、とぶっきらぼうに言った。コーヒーから昇る湯気が私の顔を覆う。
「なあ、お前あの日から元気ないみたいだけど。」
「やっぱり解かります? 私ね…渡部先生にふられちゃいました。」
「そうか。」
「うん。」
 窓の外に目をやると、向かいの校舎では、まだ声変わりもしていない一年生の男の子達が甲高い声を出してはしゃいでいる。
「どうせ聞かなくても知ってるんでしょ?」
「まあな。」
 それから藤村は何も喋らなくなってしまった。だから私も何も言わずに藤村が淹れてくれたコーヒーを飲んでいた。ふうっと溜息をつくと、黒い水面に波紋が広がって消えていく。藤村は上着の胸ポケットからラッキーストライクのボックスを取り出して、静かに煙草に火を点けた。
「お前さ、すごいよ。」
 いつになくシリアスな声のトーンに驚いて顔を上げると、いつか見た物憂げな表情の藤村がいた。
「俺はあの人に言えなかった。彼女は優しいから、きっと嬉しいような困ったような複雑な表情をすると思う。俺に対してその気はなくてもさ。俺は傷付くのが怖くて気持ちを伝えられなかった弱虫だ。お前は俺の何倍も勇気があるよ。」
 我慢していたつもりはなかったのだけど、きっと本当は我慢していたのだと思う。藤村の言葉が私の胸に突き刺さって、高ぶる感情を抑えることができなかった。気が付いたら私は藤村の見ている前で号泣していた。
「私のことを、そういう対象では、見れないんだって。でもさ、当たり前、だよ、ね。私、まだ、中学生、だもんね。でも、でも、私は…」
「相原…」
 藤村は私の体をそっと抱き寄せて、私の頬に伝う涙にキスをした。私は何も言わずに、ただ藤村のキスを顔中に浴びた。普段なら、私のことだから、きっとそんなことをされたら取り乱していたと思う。でも私は藤村の行為を振りほどこうとはしなかった。多分、これは恋愛感情のような類のものではなく、傷付いた者を慰める一種の動物的本能のようなものだと解かっていたからなのかもしれない。
「相原、よく頑張ったな。よく頑張った。」
 藤村は何度も何度も私にそう呟いた。とても優しくて、とても切ない声で。私の涙は藤村の上着に染み込んでいった。上着からは煙草の匂いがした。
「相原に勇気を分けてもらったから、俺もあの人に気持ちを伝えてみようと思う。10年間抱えてきた気持ちを、10日後、俺が学校を去る日に。そうしないと俺はきっと、ずっと先に進めないからさ。」
「そうだね。私も言ったんだから、先生もきちんと気持ちを伝えなきゃ。自分の気持ちに決着をつけないとね。」
 藤村は私の顔から唇を離して、今度は私の体をふんわりと抱きしめた。大人の男の大きな胸に包まれているのに、何故だか私は少しも緊張しなかった。そして相手は教師だというのに、少しの背徳感もなかった。耳元で聴こえる藤村の規則的な鼓動は穏やかで、もしかしたら子宮の中で羊水に守られている胎児の安心感はこんなものなんだろうかと思った。あの日以来ずっと苦しかった私の心が徐々に癒されていく。
 私と藤村の間に奇妙な友情が芽生え始めていた。


* * *



 時間が流れるのは本当にあっという間だと思う。
 体育館の壇上で、藤村は赴任してきた時と同じくらい自信満々でスピーチをしている。その隣では渡部先生が緊張した面持ちで待機している。まるでビデオでも再生しているような感じ。数ヶ月前に見たシーンが目の前で再現されていた。
「えー、短い期間でしたが、皆さんと一緒に過ごした学校生活は私にとって大変貴重なものでした。またどこかで会ったら…」
 女の子の何人かは泣きそうな表情で藤村の話を聞いている。あんな軽い教師でも、女子生徒からは人気があることを改めて知る。
 体育館の窓から少しだけ見える青い空は、風に乗ってゆっくり流れる白い雲を真上から見下ろしている。雲の切れ間からはちらちらと太陽が覗いて、ガラス越しに体育館の中を照らす。眩暈がしそうなほど天気のいい、絶好のさよなら日和。
 私は本当に渡部先生のことが好きだったのか、それともただの憧れだったのか、今となっては解からない。でももうどっちでも良かった。だって先生に拒絶されたことだけが私に残った真実なのだから。
 うっすらと滲んだ涙が射し込む陽の光に照らされて、私の視界でプリズム状になって光った。

 放課後の職員室前は騒がしかった。ホームルームが終わった途端すぐに教室を出た私は、予想していなかった人混みに揉まれて足止めをくっていた。職員室の前の廊下ではたくさんの女の子達が藤村を囲んでいて、写真を撮ったり花束を渡したりしている。嬉しそうに笑う藤村。でもきっと心の中では笑う余裕なんてないんだろう。このあと10年越しの想いを彼女に伝えるのだから。一瞬藤村と目が合った。凛とした決意の目で私を見たので、私は声を出さずに小さく頷いた。
 昇降口を出ると、体育館の窓から見えた雲はすっかり消えていて、青い空がどこまでも広がっていた。今夜はきっと星がきれいなんだろう。けれど私はあの日以来夜空を見ていなかった。もう見る必要などなかった。明日からは、渡部先生と藤村が赴任してくる前のような穏やかな日々に戻る。
「相原!」
 突然、正門を出るタイミングで声をかけられた。振り返らなくても判る。
「おい、ちょっと待てよ!」
 振り返ると渡部先生が息を切らして立っている。
「なんですか?」
「ちょっと一緒に来てくれないか。」
「もういいんです。先生のこと、もう何とも思ってませんから。」
「いいからちょっと来て欲しいんだ。」
 先生は私の腕を強引に掴んで歩き出した。
「俺は楽しみにしてたんだ。このままいなくなったりなんてできるかよ。」
 そう呟いてどんどん進んでいく。私のスピードじゃあ着いて行けなくて私は小走りになる。腕を強く引っ張られて、手首が痺れてくる。痛いけど、初めて渡部先生に触れてドキドキしている私がいた。

 見たことのある景色を通り過ぎる。少し前にもこの道を通った。この商店街も、細い路地も、見覚えがある。
「言っただろ。お前とここに来たかったんだよ。」
 古ぼけた建物。入り口にかけられている看板。消えかかっている「喫茶・斜陽」の文字。

 果たされなかった約束が今、果たされようとしていた。