カラーズ3
三、コウイチ 窓の外の風景を見て、秋が本格的に深まっていくのを思い知らされる。 チクショウ。 死ぬほど楽しかった文化祭も、とうとう終わってしまった(クラスの半分は、楽しんでいたオレらを白い目で見ながら、相変わらず勉強してやがったけれど)。ふと気付いたら、教室も学校全体も、バカみたいに静かになってしまったようだ。遊んでばかりいたオレらの周りでも、なんとなく受験生らしい空気が流れるようになった。 ヒサノは元々勉強家だから良いとしても、女子の中では群を抜いて不真面目だったミカが、急に受験生の顔に変わっちまいやがって(本当に女は急に変わるもんだな)、オレたちを焦らせる。まあ、焦ってるだけで、誰も実行には移していないんだが。 オレはまだ、焦ることすら出来ない。 いや、いくらオレが焦らないと言ったって、時間だけは確実に過ぎているのだ。一秒、一分、一時間、一日。秋が深まっていくのと同じ速さで、オレらが高校生ではなくなってしまう時が近づいている。 これはマズい。 正味の話、ものすごくマズい。 なぜなら、オレはまだ童貞なのだ! カッコわるいぜ! 高校を卒業するより先に、童貞を卒業しなきゃいけないと、ずっと(それはもう小学校を卒業するくらいから)思ってきたというのに、その目論見は全くもって上手く行かなかった。事に至るチャンスが全くない。それどころか、女の子に好かれる事もないというのだから、完全にお手上げだ。 だけど、まだ諦めないぜ。残り五ヶ月。チャンスはどこに転がっているのか解らないものだ。いくらでも、どうとでもなる。たぶん。 と、オレは毎日どうやって童貞を捨てるかということばかり考えているのだが(バカみたいかもしれないけれど、これはオレにとってはものすごく大切なことなのだから、仕方ない)、そんなオレに水を差すイベントがある。秋の個人面談シーズンだ。 この季節、高校三年生が担任と話し合わなきゃいけないことは、卒業後の進路についてしかありえないというのだから、悲しい。先生、そんなことよりも、女の口説き方を教えてくれよ。マジで。 「で、結局お前はどこを受けるんだ?」 担任は、単刀直入に聞いてきた。うちの高校はバカみたいに進学校だから、大学への進学率が百パーセントなのだ。大学を受ける以外の選択肢など、用意されていない。 「まあ、適当に」 曖昧な答え。そりゃあオレだって、大学に行くつもりがないわけでもない。ただ、今の生活を犠牲にして勉強ばかりで過ごすなんて、とてもじゃないけれど耐えられない。 まあ、結論から簡単に言えば、初めから浪人するつもりでいるということだ。 だけど、担任や親には、さすがにそうは言わない。どうせ、頑張るだけ頑張ってみろと言われるだけなんだから。 オレは適当なことを言ってごまかして、高校生のうちは、なんとしてでも女の尻を追っかけるのだ。大学なんて、形だけ受験すりゃいいだろ。ここまで勉強してないんだから、当然のように見事不合格だ。そしてオレは晴れて浪人生活へ。高校生のうちに童貞さえ卒業すれば、悶々として勉強できない毎日も来ないはず。これがオレのシナリオだ。 「適当と言ってもな、もう十月も終わりかけているんだぞ。お前には、何かやりたいことは無いのか?」 やりたいこと? ありますよ。 セックス。 という答えが浮かんだけれど、ここで言っても実現するわけじゃないし、むしろ怒られる危険性のほうが高いわけで、そうと知っていながら素直に口に出すのはどうかと思う。オレは黙って首を傾げておいた。 「お前はな、能力のある人間なんだよ。やれば何でもできる奴なんだ。自分でもわかってるんだろう」 担任はあきれた顔をしながらも、一方的に話を進める。 「先生だってな、能力がない人間には、何を言っても無駄だから言わないぞ。だけど、おまえには能力があるんだ。いくらでも言うぞ。できる限りの努力をしろ」 オレの考えなど、まったく聞く耳を持たないのだろうなあ。オレは、ひたすら続く担任の話など殆ど聴かないで、ボケーっと窓の外の風景を見ていた。 ああ、秋が深まっていくよ。 オレは童貞のままなのに! 「もう行っていい。次の人を呼んで」 担任は、一人で言いたい事を言い終えると、勝手に個人面談を終わらせた。 「やればできる」とか、「能力がある」とか、担任は本当にそんな事を思って言っているんだろうか。怪しいものだ。 だいたい「能力がない人間」って何だ。教職に就いてるやつがそんな事を言っていいのか。考え方が偏りすぎだ。 そんな激励の言葉、死ぬほど聞いてきたっての。幼稚園に入る前から、ずっとだ。両親や、学校の先生は、決まりきったように「もっとまじめにやりなさい、やればあなたはできるのだから」なんて言って、俺の尻に火をつけた気になってやがる。だけど、あまりに定型過ぎるから、オレはそれが大人の常套手段なんだと認識するようになっただけ。まじめにやるって、一体どういうことなんだよ? 本人が楽しいと思って自主的にやることと、人に言われることをそのままおとなしくやることと、どっちが有意義だ? この高校に合格したときにも、当時の担任が「ほら、やっぱりお前はやればできるじゃないか」とか何とか言いながら、柄にもなくおれを褒めたっけ。だけど、そんなの嬉しくも何ともなかったぜ。それどころか、かなり気持ち悪いっての。お前のためにやってる訳じゃねえし、褒められる筋合いもない。 とかなんとか思いつつ、舌打ちをしたオレだけど、その直後には、この高校に受かって本当に良かったと思ったんだ。 なんと、その当時オレが淡い恋心を抱いていたミユキちゃん(いつアイドルになってもおかしくないくらい可愛い。その上、性格が本当に良い。らしい。けれどオレはいつも緊張しすぎて、なかなか会話する機会すら掴めなかった、というほどの女の子だ)に、「コウイチくんって本当はすごく勉強ができるんだぁ」と、舌足らずな声で微笑まれちゃってさ。いや、もう、これはまさに、天にも昇る気持ちってやつだよ。 残念ながら、その後の進展は全く無かったわけだけれど(だから未だに童貞ってことだ)、「やればできる」と言われることよりも、こういうことのほうがオレにとってはずっと意味があると、思い知った瞬間だった。 それがオレの価値観なんだ。もっとも素直な部分での。無理やり変えることも出来ないから、変えない。 個人面談を終えて教室に戻ると、女の子たちが固まっておしゃべりしていた。 「最近、どうして大学に行かなくちゃ行けないんだろうって、時々思うんだよね」 最近、悩み深い表情(というか、何に対してもやる気が無さそうな表情と言うべきかもしれない)で、ため息ばかり吐いているユミコが、誰にともなくつぶやいている。 「そりゃあ、やりたいことを専門的に勉強するためでしょう」 ミカは、夏休み以来少し鋭くなった目で、そう答える。隣でヒサノがうんうんと頷いている。 「そりゃあ、二人は勉強したいことが見つかってるから、いいわよね」 アユミがいらいらしたように言う。少しトゲのある口調だ。彼女も最近、どうも気が立っているようで、なんだか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。 こういう女の子たちを見ていると、『みんな、もっと恋でもしようぜ!』と言いたくなるが、言ったところで仕方が無さそうなので、さすがに言わない。 「ミカは、やりたいことを専門的に勉強するっていうけれど、それなら別に、専門学校でもいいと思うんだよね」 ユミコは、思い悩んだ口調でのんびりとそう言った。誰に批判的であるわけでもない、本音の部分の言葉なのだろう。あるいは、行きたい専門学校があるのかもしれない。だけど、ほぼ全員が大学に進学するこの高校では、それを実行するのにも勇気が要る、ってところだろうか。 そんな事を考えていたら、女の子同士の会話だと解っていたのに、オレは思わず背後から口を出してしまった。 「いや、でもさ、大学には行った方がいいと思うよ」 女の子たちがびっくりしたようにオレに注目した。オレは、何となく間が悪いものの、口を出してしまったからには引き下がれないという格好の悪さで、彼女たちに話を続けるかなかった。 「同じ専門的知識を詰め込まれるにしてもさ、二年や三年で大急ぎで詰め込まれるよりも、四年間、じっくりとやるほうがいいだろ。それに、大学生活の四年間って、人生の夏休みって言われてるんだぜ、せっかくもらえる休暇は、もらっとくべきだって」 言い切ってから、ハッとした。いつのまにか、女の子たちはみんな、シラけた顔をしてオレを見ている。 「やだあ、コウイチってば、どこでそんなこと吹き込まれてきたの?」 アユミは、目をまん丸に見開いて、三十パーセントくらいの嘲笑を含めた声で、そんな風に言い放った。まあ、彼女はすぐに人を小馬鹿にした言い方をするから、オレだって、その程度のことをいちいち気にしなくなったのだけれど。 「で。そんな立派な事を言うコウイチは、どうせ大学なんてどこでも同じとか言いながら、浪人してテキトーに受かりそうな大学に行くつもりなんでしょ?」 ミカはあくまで冷静に言い放つ。当たってるだけに怖い。 「別にコウイチがそう思うのは勝手だけど、ユミコは今、自分がやっていきたいことを模索しているところなんだから」 遠慮がちにヒサノに言われると、申し訳ない気持ちにはなるのだが、 「だいたい、コウイチにとっての学歴なんて、結局富と名声と、女の子にモテるためのものなんでしょう? だったら、余計なこと考えてないで、勉強すればいいじゃない」 アユミにそう言われて、さすがのオレも頭に来た。 「おまえこそ、偉そうなことばっかり言ってるけれど、大学に行って何しようと思ってるんだよ。どうせ、男探しが目的なんだろう!」 一瞬にして場が凍りつく。緊迫した空気。 ああ、またやっちまった。言ってから後悔するバカなオレ。アユミの目が、鋭くオレを睨んでいる。 睨んでいる。 けれど、それだけ。 あれ? いつものアユミなら、すぐに人を見下した感じで言い返してくるはずなのに。ひょっとして言い過ぎたか。だけど、オレだってあそこまでいわれる筋合いも無い。確かに図星ではあったが、男たるもの、そこまで見下されるワケにも行かない。 と、緊迫した空気は、だけど次の瞬間、ユミコの発言(まるで能天気な、緊張感のかけらも無い、だからこそ優しい声)によって、一気に緩んでしまった。 「あ、そうかぁ、コウイチはたった今個人面談を終わらせて来たんだもんね。先生に色々と言われて来たんでしょ? 大変だねえ」 パンパンに膨らんだ風船が割れた後みたいに、変に何も無い空気が流れた。あまりの脱力感に、アユミはまた目を丸く見開いてびっくりしたような表情をし、ミカなどは思わず吹き出してしまっている。ヒサノは少し安心したような顔をしてくれるし、オレは皆の前に立ちはだかって、まるでバカみたいだ。 何も言えなくなって呆然としたオレと、女の子たちの間に、ヤスオとマモルが、丁度良いタイミングで入ってきた。 「何? みんな、またコウイチにセクハラされちゃってんの?」 「コウイチは、こうでもしないと女の子に相手にしてもらえないからさ。時々はセクハラに付き合ってやってよ」 「そ、まあヒマな時だけでいいから」 この二人の出現によって、空気がたちまち変わっていく。上手いよなあ。 何かと『いい人』と女の子から言われるヤスオと、密かに『癒し系』と噂されているマモルのコンビだもん。かなわねえ。 「ホント、失礼しちゃうわ。あたしの崇高な将来の夢を、コウイチと一緒になんかしないでほしい」 アユミもいつもの高飛車な調子を取り戻して、ちょっと間が悪いけれど、これでまあ、解決したと思っていいだろう。 ヤスオとマモルは、多分オレがさっきから険悪な雰囲気でいたのを知っていて、でもすぐに仲裁に入らなかったのだろう。一番良いタイミングを狙っていたに違いない。何せ、勉強は出来ないけれど、そこそこ頭が良い、つまり機転の利くヤツらだから。良い友達だ。 こいつらと友達になれたのは、この高校に入って二番目に良かったことかもしれない。勿論、一番良かったのは、ミユキちゃんに「本当はすごく勉強ができるんだぁ」と言われた時だけれど。こんなことを言っているから、オレはいつまでも童貞なのかな。 でも、やっぱりどんな大学でどんな勉強をしようかなんて、まだ思いつきそうに無いから、良い友達と出会えて、楽しく過ごせる大学生活っていうのが、やっぱりオレの率直な夢だ。 あとは、可愛い彼女ができれば最高。 |