ルミネッセンス情熱

<5>


谷中






 大学が冬休みに入ると完全にひとりになった。クラスの人間と言葉を交わすこともないし、誰にでも向けられる「おはよう」や「さようなら」もない。それは対象は僕でなくても良い言葉なのに、それさえ聞くことは出来ない。僕は関東のとある県から東京の大学まで出て来ているので帰省するといってもたった2時間の距離のことなのだ。だからいつでも帰ることが出来る。そしてあまり家に帰りたいとも、両親と会いたいとも、生まれ育った町で過ごしたいとも思わなかったのだ。
 僕はアルバイトをした。深夜、工場で部品を組み立てる仕事だ。何しろ時間はあったし、連日で入ると結構な金額になる仕事だったので僕は毎日そこで部品を組み立てた。重い物を下ろしたり上げたりするのは大変腰に響く作業だったが、純粋に文字通り額に汗するのは気持ちが良かった。忘れたいことも忘れられそうな気がした。休憩時間に同じく学生の佐藤という男と頻繁に話した。周りは割と年配の人ばかりだったので我々は話し相手を欲していたのだ。
 「菊地君、真っ直ぐ帰るの?」
 アルバイトが終わる朝方、自転車に跨ろうとする僕にそう話し掛けた佐藤はラークの赤いフリップトップの箱から煙草を一本出して僕にも勧めた。僕は礼を言い、彼の煙草を吸った。
 「飯でも食わない?」
 彼は初めて踏み込む領域に躊躇するように遠慮がちに誘う。
 「いいよ」
 「うまいラーメン屋があるんだ」
 佐藤はまるで知られてはいけない秘密をそっと話すように聞かせた。彼は体育会系の学生のような頑丈な体つきをしていて、このアルバイトにはうってつけの体格と言える。その割に優男風の丹精な顔立ちをしていて、タレントのようだ。目つきが優しくて、話し方も物腰が柔らかい。短く刈り込んだ硬くて腰のある髪を手のひらで撫でながら、「断られないで良かった」と安堵して見せる。僕はそれでこの男に好感が持てると思った。
 彼の言うラーメン屋は確かにうまかった。僕は、ははぁ、と唸り、「秘密にしたいね、これは是非」と横に座る佐藤に言う。彼も「だろ?」と誇らしげに答えた。勘定を払い終え、店の外で明け方の冷たく硬い空気を肺一杯に吸い込み僕は佐藤に携帯電話の番号を尋ねた。彼は快く教えてくれた。慣れぬ操作で数字と名前を入力する。彼の気持ちの良い笑顔が人懐っこい感じで、大層女の子にもウケが良いのだろうな、と感じた。
 「じゃぁ、また明日」
 「うん、明日」
 去ってゆく佐藤の力強い自転車の走りを眺めて、それから手元の携帯電話のメモリーを眺めて突き上げる喜びに小躍りした。「また明日」、良い言葉だ。染みる。そうだ、僕には明日がある。

 実のところ、佐藤は体格に見合わず相当な読書家であったりもした。そういう所も僕の好みに合い、そして彼の方でも僕が「本を読む」のを好みそうだという理由から僕を誘ったのであった。そして、佐藤の丹精な顔立ちを見るにつけ僕は誰ぞ女の子でも紹介して貰おうという算段も胸の内にあった。
 「菊地君」
 佐藤が僕に後ろから声を掛けた。僕は休憩中で喫煙所へ向かう途中だった。
 「探したよ。煙草吸うの?よした方がいいよ、今は」
 「何で?佐藤君は煙草吸わなかったっけ?」
 僕は意味が分からずに尋ねた。
 「そうじゃないよ。僕ねさっき煙草吸ってたんだよ、そしたら、おじさんに捕まっちゃってさぁ。田所さん」
 「田所さんがどうかしたの?あの、陽気なオッサンだろう?」
 「あの人さ、シモネタ大好きなんだよね」
 「ふぅん、そんな感じだね」
 「こういう事訊くんだよ」
 佐藤は指で輪を作るとそれを上下に動かし、続けた。
 「やってるか、だって」
 僕は面食らって「へぇ?」と間抜けな声を出した。それというのも佐藤がとても恥ずかしそうにして見せるからで、顔を見ると真っ赤になっていた。彼がそんなに純情だとは知らなかったのだ。しかも、それだけで嫌悪感を顕にするとは。僕は田所さんにそういうことでからかわれたことはないが、成る程、佐藤ぐらい純情だと面白いのかも知れないと思った。あと、美形だからか。僕だと冗談にならないのかも知れない。一般的に中高年の男性が若い者に対してそういう、性的衝動を解消する男の哀愁を訴える形でコミュニケーションをとろうと試みるのを、僕は今までにも何度か目にしたことがある。大したことではないし、それに適当に対応することで彼らが満足するのならばそれで良いとは思うのだが、佐藤には許し難い行為、侮辱に値するのかも知れない。世の中には色々ある。
 「僕は駄目なんだよなぁ、そういうの。反吐が出る」
 きりっとした眉を顰めてそう放つ佐藤を見ていた。
 帰り道、僕は自転車で並び走る佐藤に言う。
 「佐藤君、何か本貸してくれないかな?最近暇だから何か読もうかなと思ってさ。駄目かな?」
 「駄目じゃないよ。そうだ、今から家に来る?」
 予想以上に瞳を輝かして早口になった彼の、好意に甘えて、僕は彼の家に寄った。僕のアパートと似たような感じの建物の一階の部屋に通される。
 「狭くて汚いけど、我慢してね」
 エックスエル・サイズの大きなコートを脱ぎながらそう告げた佐藤の部屋は本の山だった。ゴールド・ラッシュの頃の金山みたいだ。その金鉱を掘り起こす。高く積み上げられた本がジェンガとかいう名の外国製のパズルで失敗した時みたいに崩れた。「ああ」という情けない声を発した彼を見て僕は可笑しさを堪えられない。首を回し視界を泳がせて、ふと、机の上のフォト・スタンドに目を付けた。そこには彼と長い髪の可愛らしい女の子が一緒に写る写真が入っている。
 「彼女?」
 僕は当たり前の質問をした。やはり予想通り彼は照れて、「うん、恥ずかしいけど」と言った。
 「菊地君は?いるでしょ?」
 佐藤は屈託なくそう尋ねる。僕は「いないよ」と答えて、卑屈そうな表情を無意識のうちに出してしまっていた。彼は申し訳なさそうな顔をしていたが、僕は「君が紹介してくれれば問題ない」と冗談を強調して言った。本当は冗談ではないのだけど。一斉に笑う。ああ、本当に久しぶりだ。笑うのなんて。可笑しいから笑うんじゃないのだな、と僕は思った。卵が先でも鶏が先でも、もう僕には関係がない。

 ふたりで酒を飲んだ。アルバイトが終わる時点で既に明け方なのだから、僕たちは朝から昼まで飲んだことになる。恐い物知らずの大学生だ、これくらい良いだろう。真昼間から飲酒するくらい。何でもない。
 「菊地君はどんなの読むの?どんな作家が好きなの?」
 佐藤が訊いた。
 「好きな作家っていってもオレは当たり前の作家しか知らないよ。沢山本を読むわけじゃないんだ。好きなのは物語だよ、それも詩的なやつだ。夢のあるやつだよ、示唆のあるやつだよ、何かを吐露するのはいらない。日常からうんとかけ離れたものも読まない、ありのまま日常を綴るものも読まない。恰好良い物語も読まない、情けない物語もだ。問題は詩だよ、死じゃないよ、詩さ。オレはそんなのが好きだなぁ」
 僕は随分酔っぱらっていて、そして随分饒舌になっていた。呂律が回らないそれを彼は嬉しそうに聞いてくれていた。多分彼も酔っていたんじゃないだろうか。僕の話を聞くなんて。
 「良いねぇ、やはり睨んだ通りだったよ。菊地君は。本っていうのはただ読みゃいいっていう物じゃないんだ。選ぶんだよ、菊地君」
 「そうかい?それは何でもそうなのかい?やはり君も色々なものを選ぶかい?」
 僕は身を乗り出して尋ねた。
 「色々って何だい?」
 彼は返す。
 「色々って、その、女の子とかに関わることも色々だよねぇ」
 「そうきたか」
 「うん」
 佐藤はコップの中のウイスキーを空けて半分空いた瓶から注いだ。僕のコップにも注いだ。
 「僕の彼女はね、砂早美っていうんだ、サ・サ・ミ」
 「うん」と相槌を打ち、僕は続きを待った。
 「鶏肉みたいだろう」
 「うん」
 「それだけだ」
 佐藤は言い終えて、それから吹き出した。自分で言ったことが面白くて仕方ないのだと思う。酒と不眠の魔力とは恐ろしいものだ。僕も笑った。我々は一頻り笑った後でまた真剣に話した。相変わらず呂律の方は怪しかったが。
 僕は出来るだけ正直に、取り繕うことは出来る限りせずに、千春のことを話す。聞く彼の顔は険しかった。
 「君は最低だよ、菊地君」
 佐藤がそう言ったのを受けて、僕は、「ああ、やはり」と思った。自身の過失を悔いた。話すべきでもなかった、せっかく偶然に拾った楽しい一時をも一瞬で駄目にしてしまう。
 「それでも、それは君が最低に成り得る限りでだよ。もしかしたら僕はもっと酷いかも知れない。それは分からない。もう底は見えたろう?だったら昇ろうよ、戻ろうよ、選べなかったものを選ぼうよ。終わり?まだ終わってないよ、まだ失ってない。失いつつあるんだ。終わりつつあるんだ。結果が全て、って誰か偉い人は言ったよね、まだ、出すな。まだ過程だよ。君自身を救う為に、その子を救う為に。その子とどうなるっていうのは問題じゃないよ、もし、駄目になるのなら、君としてきちんと駄目になろうよ。ねぇ、菊地君」
 僕は何時の間にか泣いていた。この頃良く泣く。だけど、これは明らかに怖れからではなかった。眼前に迫る拳からではなかった。今、僕は脅されたからというからでなく、泣いていた。
 「まだ、泣かないよ、菊地君」
 ティシュペーパーの箱を差し出してくれた佐藤はとても優しい眼差しで僕に言った。ようやく収まった嗚咽に、彼はコップの中のウイスキーを翳して傾けた。そして、「にこり」と笑った。

 昼過ぎに僕は佐藤のアパートを後にした。別れ際に「宝くじ」と言って本の山から出鱈目に取ったハードカバーの本を手渡した彼に、僕は言う。
 「何故、会ったばかりのオレに優しくしてくれるの?」
 「僕だって恥ずかしかったよ。クサかったでしょ?酒って恐いなぁ、ほんと。僕さぁ、言ったでしょ。菊地君は睨んだ通りだったって。何となくそう思ったんだよ。それだけ。僕はロマンチストなんだ」
 僕はまたも俯いた。そして。
 「ひとつ訊いていいかい?」
 「どうぞ」
 僕は佐藤に言った。
 「生きることって何だ?」
 「定めること」
 迷いなく凛と答えた彼の瞳を背に受け、僕は走り出した。2時を知らしめるサイレンが鳴る。ひどく誇らしく。

[4]
 アルバイト先である深夜の組み立て工場に行くと、佐藤はいなかった。僕は作業服に着替え、ベルト・コンベアーに乗って流れて来る部品を上げ下ろしする。特別頭を使う当てはないので、作業中視線を泳がせて佐藤のことを考えた。もしかしたら風邪でもひいたのだろうか、彼がいくら体格が良くても風邪ぐらいひくだろう。とりわけこの冬は寒い。頑強な彼といえども体調を崩すこともある。でも、彼ぐらいの男ならば看病してくれる女の子にはことかかないのだろうな、と思う。そして更に思う。いや、彼はそんな不誠実なことはしないだろう。なにせ彼には遠距離恋愛を続ける彼女、ササミという鶏肉みたいな名の恋人がいるのだから。鶏よりもずっと可愛い長い髪の子だった。ただ、服装のセンスはあまり良くなかったなぁ、顔は可愛いけど全体的に見たら千春の方が可愛いな。彼女は服装の趣味だってうんと良いんだもの。そうだ、千春も佐藤みたいな男と遠距離恋愛をすれば良かったんだ。休憩時間になったことをアナウンスが知らせる。
 僕は喫煙所で煙草を吸った。例の、下品だが陽気な、田所さんが缶コーヒーをくれた。
 「よう、にいちゃん。これ、やるわ。いやぁ、ブラックじゃないやつを買っちゃってさぁ。オレ甘いの飲めんのだわ」
 「あ、どうも。いただきます、すいません」
 僕は礼を言い、プルトップを起こす。暖かく甘い香りが漂い、僕は煙草の煙を吐いて一口飲んだ。僕は思った。佐藤がもう少し偏狭でない考え、実際には「いい加減さ」を持ち合わせれば楽になるのになぁ、と。僕には彼の今のままが嬉しいが、それも疲れるだろうに。僕を救う為だけに彼が存在するわけじゃない。当たり前だ。
 「あの、綺麗なにいちゃん辞めたらしいわ」
 田所さんは突然言った。一瞬、自分に向けられた言葉だとは理解出来ず「え」という音声を発してから、その後で内容をも理解した。彼は確かにこう言った。
”佐藤は辞めた”と。
 「知らなかったろ?」
 田所さんは続けた。
 「今日に突然電話があったんだと。管理の奴から聞いたわ、オレ長いからさ。ここ」
 「理由はっ?理由を何か言ってましたか?」
 僕は慌てて尋ねる。
 「さぁ、そこまで聞いとらんな」
 「そうですか」
 アナウンスが再び何か知らせる。

 自転車のペダルを滅茶苦茶に漕いだ。吐く息は白く、農薬を散布するようにも見えたろう。端から見れば。それぐらいの呼吸だった。寒さにも関わらず背中にはじっとりと汗をかいて、佐藤の家の前に着いたときには気管が「ヒュー」、「ヒュー」と音をたてていた。自転車のチェーンロックも忘れて、彼の部屋の呼び鈴を鳴らす。部屋のドアには手製の表札が、「佐藤」とワープロで打ったものをプリントアウトした紙が差してあった。この几帳面さがいかにも彼らしい。僕は安心して、「ほら、見ろ。何も起きていない」とひとりごちた。呼吸は今だ整わず音をたてる。もう1度呼び鈴を鳴らし、ドアをノックした。トン、おうい佐藤君。トントン、いないのかい?トントントントントン、おうい。何も応答はない。電気料金のメーターが動いていない。僕はその場に膝をついてうめいた。
 「佐藤くぅん、何でだよぅ、おうい、オレが何かしたの?」
 それでも何も返事はなかった。
*
 僕はアルバイト先のロッカーにそのままになっていた佐藤の荷物を引き取った。管理者の人に話をつけて、未払いの給料を預かる。しびしぶ了承してくれた彼の渡す封筒を大事に鞄にしまい、佐藤の作業服を紙袋に入れて持ち帰る。作業服は借り物でなく各自購入させられる為、そのままにしておくと捨てられてしまうのだ。そして、それは忍びない。しばらくして僕もアルバイトを辞めた。
 僕はそれ程金に困ってはいない。両親から仕送りを貰っているし、その分だけで僕が暮すのに支障がない。僕は贅沢を好まないし、幸いこれという趣味もないのだ。自炊もしている。恋人も友達もいない。
 何もない。アルバイトして得た金でCDラジカセを買いに出た。以前から使っていたステレオセットが修理に出してもうまく動作しないのでこの際買い替えることに決めたのだ。久しぶりに少し離れた大きな町へ行く。電車に揺られ、車内の熱く焼ける空気から程なく解放されると、そこは若者が大勢何かを消費する若者の町だ。この町は取りあえず雑誌の特集にはなるぐらいオシャレな町ということになっている。片手に大きなダンボールの包みを持ち、店の並ぶ通りを歩く。一軒の古着屋で手頃な値段のコーデュロイパンツを買った。レコード屋で2・3枚のCDも買う。それだけで僕の買いたい物は全部で、もう何もない、本当何もない。一言で表すならば、僕の生活は空虚なのだ。いや、心か。街は寒い。

 学校が始まり、新しく買った薄い茶色のコーデュロイパンツを履いて講義に出た。誰も「お、そのパンツ良いじゃん」とも「買ったの?あたしもそんなの欲しい」とも言ってくれはしない。本当に良いパンツなのに。僕がどれ程良いパンツを履こうとも誰にも何にも関係がない。全く。
 僕はびっしりと字で埋められたレポート用紙の束を抱えて教授の部屋に入っていった。そして教授に手渡す。礼を言い、部屋を出ていくときに廊下で千春を見た。彼女は少し痩せていて、隣には僕を殴ろうとした大きい男がいる。何も言葉を交わさずに歩くふたりとすれ違うが、目も合わさなかった。男が恐かったせいもあるけれど、彼女が以前僕が知るような千春とは変わってしまったように見えたからだ。その雰囲気が。纏う空気が。僕は横目でちらと彼女のその横顔を見て、やはりそれでも可愛いなぁ、と思った。
 出るはずだった講義が突然休講になってしまったので時間がぽっかりと空いた。その時間を潰す当てがなくて、僕はぶらぶらと歩く。いつだか早朝に誰もいない敷地内をあてもなく散策したときのようにだ。ここに、僕の知らない場所があり、僕の知らない学生が何事かに勤しむ。決してそれは学業ではないし、それが果たして勤勉であるかは疑わしいがそれでも彼らは青春を謳歌していた。輝いていた。寒さなど感じてはいないだろうと想像出来た。もしかしたら、蓮実の言う「輝き」はこういうことなのかも知れないな、と思った。彼ら学生は貧乏だし、何かに努力を費やして成功したわけでもないが確かに幸せそうだ。恐らく何かも迎えている。迎える者、そして迎えられる者。対だ。それは対だ。番いだ、恋人同士も番いだ。羨ましい、と思った。けれど、それは一瞬で馬鹿馬鹿しく消えるのか。そうかも知れない。実際僕も一瞬で失い、今ここに何も持たず在る。両者は同じ地表に立つにも関わらず、決して同じ土俵の上には上がらない。恐ろしく違う者たちなのだ。
 中庭を歩いて、僕が良く利用する3号館の校舎へと入っていった。そして一番良く利用するのが104講義室、西側に大きく窓を取った長方形の凡そ150人は収容出来る空間、ここだ。僕はその部屋の目の前にいる。
 僕は深緑色のハーフコートの沢山ついたポケットのうち、右の胸のポケットから煙草のフリップトップボックスを取り出してその1本に火を点ける。白く澄んだ息の次に白濁の煙が口から漏れる。見るともなく見上げると眼前には長方形の木製の左右対象の引き扉があり、それはとても大きく重く、縦型の金が錆びた色の取っ手がこれもまたシンメトリーに並ぶ。重量感が迫る勢いで僕に語る。
”我はおおよそ50年の昔に生まれ、ここに鎮座し続ける者。生を受けて以来、可能性の入り口と出口を司る者であり、体の自由と引き換えにある役目を授かった。錆が落とされることはついぞない”
 さすがに僕の空想だ、語彙が少ない。要領を得ない。古語なのか口語なのかさっぱり不明だ。しかも陳腐だ。愚かしい。僕は赤く光るスタンド型の灰皿に灰を落とし、「お前は良いな、毎日用務員さんが掃除してくれるもんな。僕だって綺麗でありたいよ」と灰皿に向けた。時が無為に流れる。いや、これまでだって無為に流れて来たし、これからだって無為に流れて行くのか。その意義が一体何なのか僕の授かり知るところではないが、知らなくとも良いだろう。セックスをして過ごす人生だ、セックスのことを考える人生だ。意義などいらない。必要じゃない。必要なのはコンドームだ。コンドームすら必要ではないかも知れない、ならば、祝福のうちに膣内射精をして祝福という手垢にまみれた子供を作れば良い。問題がひとつある、相手が必要だ。コンドームよりもだ。ハハハ。一体いくらだ?40分でいくらだ?8000円か、本番はねぇのか。ハハハ。白濁の煙を吐く。何故僕の吐き出す老廃物は何もかも白く濁っているのかな?白いよ、嫌な色だ。
 時計に目を遣る。と、講義が始まるまでにはまだたっぷりと時間があった。ここに来たばかりに時計を見た時も講義が始まる時間まではたっぷりと間があった。果たして動いているのだろうか、時計は勿論そうだし、肝心の時間の方がだ。僕に何の断わりもなく止めて貰っては困るのだ、こっちは待っているのだから。無為に過ぎて行くのをだ。無為な人生の中の無為な断片の始まりを待ち、無為に時間を浪費する。生まれたわけを持たない無為な僕が。酷く静かで辺りに人影は見られない。何の音もしない。歓声や馬鹿騒ぎする学生の鳴き声、工事現場の音、車の音、犬の声、その他諸々、一切の音声が地上から消えた。昔のSFには良くこんなシーンがあったな、舞台は決まって火星なのだ。それは決まり事で、火星人の女は金髪の美女だ、相場は決まっている。僕は地球から来た探査隊のメンバーで決まって静かだ、それが見る者の心拍数をコントロールする。この後でいきなり大きな音で驚かす。定石だ。もしくはこんなのにも似ている。昔、子供の頃見た漫画で、それは未来から来たロボットが駄目な少年を救う話で、気に食わない奴をこの世から消してしまうスイッチという秘密の道具を少年に貸し与えるのだけど、やはり少年はかたっぱしから消してしまい終いには自分だけを残して全ての人間という人間を消してしまった。悲惨な結末かと思いきや、実はそういう危険な思想の持ち主を凝らしめる道具だったというオチのつく話なのだ。似ている。その静寂に。世界中でひとりきりの静寂に。もしや、いや、有り得ないことを膨らますのも良いけれど一体講義はいつ始まるんだ。正味な話さ。そういう現実的な話をしようぜ。それにしても寒い、ダウンジャケットを着て来るべきだった。先日買ったコーデュロイパンツに合わせてクリーニングから帰ったハーフコートを着て来たのだけど、良く考えれば確か天気予報では「この冬一番の冷え込み」とか言っていたような気がする。ああ、寒い。もう一本煙草を吸う。
 空に浮かぶ雲を見ていた。鉄柵に肘を付き、頬杖を突いて、煙草をふかした。白い綿埃のような散り散りになった雲が、薄い和紙をすく時に繊維を平たく並べたような雲が、淡くオレンジ色に染まって行く。正確に言うと、気がついたら染まっていた。昼の間に蒼い部分は強い橙色となり網膜を刺激し、僕は無音で平和な場所で夜の帳が落ちる手前の僅かな福音を堪能していた。それももうじきに終わる。本格的に寒くなって、僕はふと教室の扉に目を向ける。
 「お前さんの腹の中は暖かいのかね?」
 僕は割と真剣に尋ねた。扉に手をかける。
 力を込めてゆっくりと扉を引いた。子犬の鳴き声のような甘えた音をたてて視界が開ける。眩く荘厳な光。西日。
 「やっと来たわね」
 性的に刺激される、美しい声がする。
 「誰?扉?もしかして女だったの?てっきり男だとばかり」
 僕は目を瞑ったまま尋ねた。すると、息の漏れるような笑い声がする。
 「相変わらずおかしなことばかり言うのね」
 蓮実だった。その他には誰もいない。僕はようやく光に慣れた目で辺りを見回す、確かに蓮実だ。良かった、扉の声に欲情したのでは僕も本当にお終いだから。半円状に並ぶ机の群の中心付近に位置した一角で、薄汚れた机の上に腰掛けてその、綺麗なスカートから伸びた、長く白い足を組替え、手招きで僕を寄せる。彼女の着たコートの縦一列に並んだボタンは胸の膨らみで正中線を乱している。黒く肩まである髪が揺れた。傾げると赤いマフラーも傾く。
 「こっちおいで」
 手招き。
 優しく、暖かく、包まれるような光。そして暖かい声。僕はその羊水に身を浸すような安堵感の中、誘う声にズボンの前を僅かに膨らませて、蓮実の方へ歩を進めた。笑顔の形に結ばれた唇は艶やかで、細めた目が語る状況。組んだ足のその奥の隙間から覗く淡い水色の下着。僕の境遇を哀れんでいやらしく気持ち良いこと、フェラチオをしてくれるのかも知れない。いや、それ以上だって有り得る、このシチュエーションでなら。必要なのはやはりコンドームだったのだろうか。胸が痛い程打つ。
 差し出された手の先を風もなく、笹舟を小川に浮かべた様を連想するようにゆっくりと空気が流れた。大きく、まるでトリミングされたがごとく西に向けられた窓からは強く、橙の表皮の色を模した色の帯がそこだけに揺らめいた。長い波長、スペクトル。他はまるでモノクローム。切り取るとルミナンス・キー。明度差が激しく。差しこむ光に浮き彫りになった埃の粒子が電極のようにゆったりと、尾を引きながら、自転しながら、目の前を横切ってゆく。イオン。僕は今、マイナスイオン。生暖かい空気が頬を撫ぜる。するとピリッと静電気が。
 僕は確かに天上からの視線を感じた。彼女と僕がここにいることをロマン派の巨匠ならばどう描くだろうか?きっと名画になったに違いない。俯瞰する視線。偉大な舞台演出家の壮大な演出、僕はかつて感じたことのない頂上にいた。それは性的なものではなく、しかし性的な絶頂に程近い。彼女の息遣いを感じた。興奮が。
 「わたしが言ったこと憶えている?」
 蓮実はゆっくりと言う。
 「ああ、憶えてるよ。君の言ったことは全部憶えているよ」
 「じゃぁ、全部憶えたままでいて」
 目を伏せて彼女はその長く存在感の在る睫毛を平伏させて、言った。僕は更に進み、彼女が伸ばした手の先と僕の伸ばした手の先が触れる距離まで来て止まる。蓮実の5本の細く艶やかな指の股に僕の無骨な指の股が噛む。歯車が合致するように、心を掻き混ぜるように、隙間に入り込むように、そう、それはまるで、セックスのように。僕は目を閉じた。
 「暖かい?」
 蓮実も目を閉じたまま問う。
 「うん」
 「柔らかい?」
 再び問う。
 「うん」
 「憶えていられる?」
 「うん」
 「目を開けて」
 蓮実は酔いの醒める語調で言った。そして続ける。
 「今から光り、輝く」
 「え?」
 「『蛍や燐光のように』」
 強く強く淡く、だが、攻撃的でない光を、音もなく、彼女は発した。それは以前からこの部屋に蔓延する橙色の陽光の延長のようであり、冷たく揺らめく月明かりのようであった。僕が見たこともなければ、想像したこともない光だった。後光とも違う。尊いのかどうかさえ分からない。
 陰と陽。
 光と影。鋭さ鋼。
 真昼の月の穏やかさ、真夜中の太陽の異様さ、馬鹿馬鹿しさにひれ伏す。彼女は促す。
 「はいっ、」合図、掛け声。
 「光って…消え」
 僕は導かれるように初めて自転車に乗れたというようなたどたどしさで、口から意思なく自然に言葉をついた。指先軽く、掴み所なく、ふいに預けた体重が支えをなくし重力に突然魅了される不安定さで僕は重くなる。心許ない。
 「…た」

 彼女は消えた。