ラビット・バーク


<1>

神田 良輔









0.

 ある一室で、それは行われた。
 平凡な20代の青年が一人でやり遂げられる仕事にしては、常識を超えた仕事だった。プログラミングという仕事は建築と同じことなのだ。小人数で行われるよりチームを組んで行われるほうが効率がいい。ましてや巨大な建物ならば、大人数でやる以外には考えられない。 しかし、彼にはそれを一人で行わなければいけない理由があった。誰にもうちあけられなかったのだ。
 たとえば、ある種の恋をうちあけるのは難しい。単純なことで、自分が何を考えているかを把握していないからだ。彼のプログラムも同じことだった。これがなにをなすか、なにをどうするものなのか、それを話すきっかけを持ち得なかったのだ。
 彼はプログラム言語と抽象的な日本語、そして絵を描くにも似た想像力を働かせて、ひたすら端末に向かった。あるときには集中して、あるときには空白になって。そうやって長い長い時間が過ぎた。
 あるソフトが完成した。
 起動させてみて、このソフトが何の役にも立たないことに、彼は初めて気がついた。入力待ち、そしてこちらが適当なキーを押すとコンピュータの思考時間の後、ある反応がくるだけなのだ。ここにはアルゴリズムが確かに働いている。だが、それに名前をつけることができない。
 彼は悩んだ後、これに英語翻訳機能をつけた。辞書と、既存の翻訳ソフトを使って、数百語の変換をためしてみた。うまくいった。よし、これで翻訳ソフトの完成だ、と彼は思った。
 しかし、翻訳ソフト、と呼ぶには、彼には抵抗があった。英語のデータなしで、このソフトには意味があるはずだ、その意味には、しっかり名前をつけなければなるまい。
 さて、なんの意味がある?――彼は考えた。
 しばらく彼は考えつづけた。女の子と遊んだりマージャンをしたりして、考えつづけた。そしてある本を見ているときに、はっと気がつき、端末に向かった。
 langue code 、うん、過不足ない名前だ。彼は思った。



1.


「じゃあ、小川さん。また」
 僕は黙って手を振り返した。彼女は少し手をあげ、そして背中を向け歩き出した。振っている手を下ろして、僕も振りかえった。 歩きながらため息をひとつついた。すごく疲れていた。
 今日は久しぶりの街歩きだった。彼女に誘われて映画を見て、いろいろとものを買い、食事。そして、夜が遅くならないうちに別れた。まあとりたてたイベントだったわけでもないが、普通の週末の過ごし方だったとも言える。友達と映画鑑賞、そして買い物、食事。
 僕は彼女をもう必要としていないのだ、とあらためて感じる。映画はまあおもしろかったが、とりたてて印象は残っていない。彼女と歩きながら喋ることも、まあつまらない相手ではない。いろいろ知識のある人だし、会話の小細工もこなれている。僕だって今日は必要以上に喋っただろう。
 しかしそれでも、僕はもう彼女を必要としていないのだ。彼女の顔を思い返す――が、なんの感情も思い返すことができなかった。お互いを暇つぶしとしか認識していない。仕事がひまにならなければお互い会うこともないのだ。
 彼女に会うことでなにかを無くしていくような気がする。僕はだんだん磨り減っていくのだ。
 歩きながら電話を取り出す。メモリーを開き、彼女の番号を見つける。プロパティ、着信拒否を選択……イエス。そしてまたため息をついた。

 とにかくたくさんの人が町にはあふれていた。週末の渋谷なんて来るものじゃない。JRの駅まで数分、歩くことを考えただけでも憂鬱になる。一日歩いただけだけど、もう体力は限界のようだ。
 街にはきれいな人も、そうでない人も含めて多くの人たちが歩いていた。ほとんどが二人連れ、もしくはそれ以上だ。一人で歩いているのは僕くらいかもしれない。彼女と街を歩きながら、早く一人になることを考えていた。実際頭が痛かったとか、熱がありそうだとかそう言ってしまえばよかったのかもしれない。――いや、そうでもないだろう。僕はただ、彼女と一緒にいるのが苦痛になったのだ。
 これで着信拒否は合わせて5人になった。僕はその中の誰にも悪感情を持っていない。
 おそらくその5人も僕をそれほど僕に悪い感情を持っていないと思う。そして、同じ位はっきり言えることは、好んでもいないということだ。今後一度か二度、かけてくることがあるかもしれないが――僕の電話は相手が掛けてきたかどうかも記憶されないし、気づかない――それ以上はかけることもない。僕はそこまで呼ばなければならないほど、彼/彼女らにいろいろした覚えがないから。そして、彼、彼女たちは僕のことを忘れていくだけだ。僕につきあう変わりにほかの友達を探すか、テレビでも見るかするだけのことなのだ。
 電話を見つめながら、いつの間にか駅までついてしまった。人通りが多く、動くのは簡単だ。人の流れに沿っていくだけでいい。信号では止まらざるをえないし、青に変わったのも頭をあげずにわかる。
 しかし、着信拒否が5人というのは多すぎる、と思う。僕の人生の中で5つ開いた暗闇のようなものだ。僕の人生の中で後に残らなかった、今後僕には関わってこない5つの影だ。
 でもそれは仕方が無い、こうしていくのが一番ラクなのだ、効率的なのだ――はあ、とまた僕はため息をついた。
 急に手の中の電話が震えた。呼び出しだ。
 妹からだった。街頭によりかかり、受信する。
「もしもし」僕は言った。
「あー、兄さん?」妹の声が答える。
「なに」
「今何してんの?」
「帰るよ、もうすぐ」
「あ、ホント?ご飯食べた?」
「食ったような、てないような――」
「ねえ、じゃ池袋で待ち合わせない?ちょっと話もあるんだけど」
「帰ってからでいいだろ」
「家になにもないよ」
「じゃ買って帰るよ。今日は金つかっちゃったから、あんま使いたくないんだ」
 少し考えるような沈黙が入る。
「まあ、たまにはいいじゃない。外で話すような話なんだ」
「おまえ、出してくれる?」
「わかったわよ。出すからさ」
「いいよ、なら」
「じゃ、池袋の――前に入ったコーヒー屋で待ってる。もう着いてるから、すぐ着てね」
「20分くらいかかる」
「わかった。じゃ」
 電話は切れた。
 信号は青になっていた。歩き出す。電話のモニターには”通話時間48秒”と表示されていた。


 今日会った彼女のことを、移り変わる電車の窓を見つめながら考えた。何も考えることがない。自然とそうなってしまう。
 彼女は僕より3つ年下の学生だ。どこで知り合ったんだっけ?――と考えて、思いついた。僕が学生だったころにやっていたバイト先の友達、そのさらに友達だった。
 あのころは女の子がくる、といえばほいほい出ていった。1度目は大勢の人が来ていた居酒屋で、ほとんど話もしなかった。2度目は僕と友達と3人で、バーで。そのときに話をして、親しくなったのだ。僕の友達を交えて遊んでいるときとかに、僕に電話をかけてくるようになった。
 半年ほど、まったく僕に連絡をとってこなかったときがある。彼女がある男と付き合っていた期間だ。僕らの間の友達も、まったく連絡をとっていない、と言っていた。半年過ぎて(どうやら振られたようだった)、別れて以来、またひまな生活が続き、ふらふらと遊ぶようになった。そういえば彼女は学生を続けて5、6年目ではないだろうか。
 僕らはそうしてまたよく顔を合わせるようになったりもしたのだけど、これ以上仲が良くなることはないというのはお互いがわかっていた。恋とかそういうのは、相手に期待を持たせたり持たされたりするところから始まる。僕にも相手にもそういうところはなかったように思える。
「誰か、付き合いたい人っているの?」
 僕は聞いてみたことがあった。
「うーん、特にいないかな」
 彼女は答えた。
「なんだかもったいないね。かわいいし、ふらふらしてるだけってのも良くないぜ」
 彼女は笑った。
「小川さんと同じですよ。少し大人になったんです」
 僕も笑った。ろくでもない話だ。
 そんなことを考えているうち、池袋に着いた。

 妹は壁際の二人がけの椅子に座っていた。ジーンズと白いシャツ、眼鏡をつけたままだ。壁を見つめてほとんど動いていなかった。
 妹と僕は同居している。二人でマンション住まいをしているわけだけど、こうして顔を合わせることはほとんどない。
 僕は大学に入学するのと同時にマンションを借りた。けっこうな額を援助してもらったのだが、僕が移って1年して妹がいっしょにすむことになったのは驚きだった。僕らは妹は当時まだ17歳だったのだ。
 妹は飛び級して高校を卒業し、大学に入学した。大学も3年で終え、院生活を経て、今も大学に残っている。とんでもなく優秀な成績をとりつづけることに成功してきた、稀有な例なのだ。海外に出した論文が認められて新進の数学者として本を出版する、という話も聞いた。頭が上がらない妹だ。
 僕とは4つ離れているが、昔から僕らは仲が良かった。共同生活もうまく行ってる、と言えるだろう。
 今休職中の僕の生活は、彼女によってまかなわれているところが大きい。
 頭があがらない。

 僕は声をかけて座った。
「あら、お疲れ様」
「お疲れ」
 妹は眼鏡をはずした。それをかたしながら言う。
「今日はなにしてたの?」
「女の子とデート」
 僕は答えた。
「ウソ」
「本当だよ」
「付き合ってる人いたの?」
「付き合ってないよ。それに、もう会わないよ。多分」
「ケンカでもした?」
「してないけど」
「よくわかんないな」
「なあ、腹減ったよ。早くどこか行こう」
「ケーキ頼んじゃったよ。思ったより遅いんだもの」
「2秒で食えよ」
「なんか頼む?」
「いいよ、待つからさ」
 ポケットからタバコを出し、火をつけた。
「今、機嫌悪い?」
 妹が聞いた。
「いや――そうでもないよ」僕は言った。「今日は疲れたよ。久しぶりに映画見たりね」
「お疲れ様」妹は言った。
「お疲れ様」僕も答えた。
「相変わらず人が多いとこヤなんだ」
「早く埼玉に帰りたい」
「なんだか想像つくね。10年後の兄さん」
 そう言って妹は笑う。
「もう立派な中年だ。仕事はしてないけど」
「仕事はしてないけどね」妹は繰り返す。「どうなの?就職活動は?」
「今、一社に送ってる。返事待ち」
「あんまりあせってないんだね」
「――そうだな。いや、悪いとは思ってるよ。迷惑おかけしてるし」
「いえいえ――私はいいんだけどね、別に。今までお世話になったんだから」
 2年間だけ、と思ったが、口にはしない。
「今のままでいいような気もするよ。まあ、気長に、落ち着けそうなことを探しなよ」
「よくないよ」
 ウェイトレスがケーキを運んできた。チョコレート・ケーキだ。
「あのさ、おまえ、本当にいいの?」
「なに?」
 口に運ぶ手を止めて、妹が僕を見た。
「いやさ」
 僕も新しいタバコに火をつける。「おまえだって貯金したいとかさ、付き合ってる相手とか、そういうことだよ」
 妹とまともな話はほとんどしない。久しぶりに切り出す話だった。
「いいんじゃない?」
 フォークを再び動かして、妹が答える。
「まあ、私のことはあんまり気にしないでいいよ。大丈夫、急に出て行けって言ったりしないから」
「なんだかなあ」僕は言った。
「それより兄さんのことよ」
 またフォークを置いて、妹が言った。


 私の友達に会ってほしい、と妹は言った。
 昔からの知り合いが、最近になって、僕に会いたい、と言い出した。聞かれるままに兄さんのことをしゃべったんだけど、どうやらそれが彼女の恋心を刺激してしまったらしい。少し思い込みが激しい子だけど頭は悪くないし、(僕好みに)背も高いしスタイルもいい。ちゃんとした彼女ができれば僕も落ち着くかもしれないし、昔からいろいろあった子だから、まあ幸せになるならそうなってほしい――


「まあそういうことなんだけど」
 妹は言った。
「私もねえ、話されたときにいろいろ考えたのよ。この人がこの子を幸せにしてやれるか、とか、ひどい別れ方して私にいろいろあってもイヤだなあ、とか、ね。私に付き合ってくれてる唯一みたいな幼なじみだし、だいたい良く知ってるのよ」
「ふうん」僕は言った。「お付き合いね」
 彼女、と僕は思った。僕は今まで”彼氏彼女”で付き合ったことがない。僕は人気があるタイプでもないし、特に誰かを好きになったこともない。ふらふらと遊んでいただけだ。
「あんまり気が進まない」僕は言った。「だいたい、俺のこといつ知ったんだ?」
「兄さんだって何度か会ってると思うよ。小学校から知ってる子だから」
「なんて名前?」
 向田恵美、と彼女は言った。覚えがなかった。
「まあ、一回会ってみれば?」
「とは言えな」僕は言った。「そういうのは高校くらいで終わりかと思ったよ。どうするんだ?俺。『や、どうも、はじめまして、小川清恵の兄です』って会って、それから?そのままホテルつれていくわけ?」
「――まあ、そうすりゃ確かにてっとり早いよね」
「でフられたらそうとう落ち込むぜ」
 妹は笑った。
「まあ、なるようになるよ。だいたい兄さん、そういうことできないでしょ」
「俺のこと好きなんだろ?――ってそういうの苦手なんだよ」
「まあ、いいの、普通にしてれば。ただ顔見せるだけで」
「どんな顔してりゃいいんだよ」
「まあ、一回言っておこうと思っただけでさ。いつかセッティングしちゃうからね」
「おいおい」
「言ったでしょ、よく知ってる子なんだ。兄さんと同じ位」
 妹は言った。