バーキング・オン,ラビット


<3>

神田 良輔












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「最近わかったことがあるんだよ」
 とお客様は言った。
「なんでしょうか」僕は言った。
「ほら、以前娘が国語の成績が悪い、と言っただろう。以前キミにも話したはずだ」
「はい。思い出しました」
「いやあ、つい気になってしまってね、いくつか受験用の参考書を集めてあたってみたんだ。はじめてから5時間くらいしてかな、ある現代国語講師のテキストにあたってね、ピンときた。娘はね――思いこみすぎるんだよ。だから、正確な判断ができない、そのため、国語のテストではいい点数がとれないんだ」
「思いこみすぎる?」僕は言った。
「うーん、そうだな、ちょっと違うかもしれない。例えばね――小説の読解問題があったとしよう。文頭に「白い髭の老人がいる」という文章があるとするだろう。そうすると、娘はそれを見ただけで、この老人のいろいろな成分を思いついてしまうんだ。例えば、この一文からのみ導けるのは――単純なことだ、白い髭をもった、老人がいる、というだけだ。しかし、娘にとって先の一文、「白い髭の老人がいる」はそれだけではない。例えば中国の人民服を着ている、例えば優しそうな笑みを浮かべている、古代の失われた知恵を持っている……そういうことがね、オートマチックに流れてくるんだ」
「ははは、わかりますね」
「いや、今の例はあくまで僕が導いたものだ。だからまあ、わかりやすい例しかひけないんだけどね。それはもう、僕の思いも寄らないような連想を、彼女は持ってしまうんだよ。これには上手く例をだすことができない。オリジナリティが豊富すぎて――つまりそのオリジナリティをもって彼女の国語の成績を苦手としている点なのだからさ、たとえるとなにかが異なってしまうからね」
「はあ」
「だからそれを伴ったまま本文を読み進めていくうちに、齟齬が生じてしまう、正確な読解ができないんだ。ちょっと思ったのは、その正確さも、あまりに不備が多い物ではないかと思ったのだがね」
「でも僕もありましたね。解答を読んでも納得できないことが」
「うん、そうだね」彼は言った。「……まあ僕も専門でないから尊重しようと思っているが。ただ、言語っていうのは、一義的なものではないだろう?いや、単一的でなければならないが、厳密に――まあ、数学並の厳密さをもってすると、二項対立的がせいぜいだ、対義語、だね。言葉同士には、暗黙のうちに繋がるものはなければならないし、それがなければすべての言語は成立しない。笑い話も存在しなくなる。さて、この言語において、正確なリンクというものを辿っていけるものかね?」
「はあ、そうですね」話が複雑になってきてはいたが、それでもわからないでもなかった。「無理じゃないかと思いますね」
「うん、僕もそう思う」彼は言った。「だから現代国語というのは――非常に曖昧な境界の上に成り立っているわけだ。名前も付けられないほど曖昧なものの上になりたち、数字という現代科学の極みをもって評価を下す……」
「まあでも、国語は――本を読むことは、けっこう好きでした。僕は」
「ははは。国語と読書はまた別だよ……でもそうだね、読書が、1対1の交流が基本になって現代科学はなりたっているのは大事だよね――ふむ」
「はあ」
「いや、ありがとう。キミとの関係も続けていきたいものだね」
「はい、まあ、お話ならお聞きできますから」
「うん、じゃあ、そろそろ」
「はい。お電話ありがとうございました」

 お客様は電話を切った。




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 仕事の時間を少しづつ減らしていこう、と思った。実際今までと同じ分量を仕事をこなしていくのは――それ以外になにも考えられないという点で良かったが、それ以外のことが頭に入ると続けていくのは難しかった。
 それ以外、というのは彼女のことだ。何度か会うことを続け、電話も重ねるようになっていくと、僕の生活は多重性を持つようになっていった。僕の時間は、生活の時間と彼女の時間、それに仕事の時間、というように、大きく三分された。これらにそれぞれ時間を割り当て、頭を切り換える必要が出てきた。
 仕事をしながら上手にいろいろやっていくのが普通のことではないかと思う。だけど、僕はそれを上手くやることはできないと思った。彼女のことを考えながら仕事のことをするのは不可能だったし、仕事のことを考えながら彼女と一緒に過ごすことには価値がなかった。僕は彼女のことを、意図的に考える時間を作る必要があった。
 彼女とは会う時間が増えていった。彼女と会うことは、楽しかった。仕事が受動的な仕事であるのに対して、彼女と会うときは能動的な、こちらが思った行動をとることができた。僕は彼女と会って、自分からなにかをすることの楽しさを思い出した。
 彼女も僕にあわせていろいろと付き合ってくれたものだった。僕が借りてきたビデオを一緒に見てくれたり、僕の選んだコンサートにも来てくれた。彼女はそれらを一緒に楽しんでくれているように見えた。
 僕は彼女のいろいろなことを知っていった。細かいことから大雑把なことまで、いろいろ知ることが出来た。いくつかは目をつぶることも出来たし、またいくつかは好ましく、僕の気分も楽しくさせることだった。




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 こんばんは。
 兄さん。


 今日私はずっと一人でした。散歩もしないし、隣の部屋へも行かない、二度介護してくれる人が来てちょっとおしゃべりをしただけです(そのおしゃべりを、私は他のことを考えながらしてました)。一歩も外に出ない、内省的な一日を過ごしました。とはいえまだ起きて五時間ほどしかたってないので、まだ眠くもありません。

 私は外の世界が怖くて怖くてしかたがありません。かつてお兄さんと一緒に過ごしていたことを思い出します。すると、いろいろイヤだったことが思い出されます。本当は顔を洗うのも面倒でイヤです。こんなことまったくやりたくないことなのです。でもそれをして、しっかり身の回りを整え、鏡で入念にチェックしてからでないと町を歩けないのです。だから私は3日前に五パック買いだめしたチキンラーメンばかり食べています。ヒマなんだけど、動くのはもっとイヤです。

 私はは動くのがイヤです。私は動きたくない。


 こういう時くらい、兄さんに電話をかけてくだらないことでも話したかったのだけど、それも上手くできませんでした。どうして兄さんは電話に出てくれないの?ちょっとしたおしゃべりもできないの?


 ひどく大げさに言うと、私を動かしてくれる、最後の望みだったのです。兄さんは。
 それがいなくなってしまうなんてひどい。

 何が私に髪をととのえる時間を与えてくれるでしょう?――いえ、誰が私に「髪くらいちゃんとしろよ」
 と言ってくれるでしょう?私一人ではそれを言うことが出来ません。誰かに言ってもらわないと、私は一人ではなにも出来ない。インターネットなんてうざいだけです。ゲームなんかつまらなすぎる。テレビが私に何を言ってくれるんでしょう?

 ひどくイヤな手紙になってしまいました。兄さんとはまともに顔もあわせられないけど、こういう手紙はとどいてしまうのでしょうか?  すごく奇妙な気分です。このままじゃ私の言葉の面だけしか知らなくなってしまいますよね。

 この手紙は送られるかな?……わからないけど、でもたぶん送られちゃうと思う。

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 彼女と一緒に過ごしながら、一度、意識がなくなったことがあった。
 街のホテルで外泊しながら、僕はベッドに入り、彼女はソファに座って雑誌をめくっていた。時折思い出したように僕に話しかけ、僕は適当に相づちを打つ。そんな感じで僕らはのんきに休日を過ごしていた。
「転職したいな」彼女は言った。「ねえ、どんな仕事がいい?」
「ちょっと待ってよ、僕が決めていいの?」
「なんかどんな仕事があるか、思いつかないんだよね」
 彼女は少しづつ、自分の仕事の不満を話していた。細かいことながら、多くの気に入らない点があるようだった。転職も、ある程度、本気で考えているようだった。
「うちのチームに入る?常に人員は募集してるんだよ。長くやってくれる人が欲しいんだけど、なかなか居着いてくれないんだ」
「だってあなたの仕事はコンピュータ使うでしょ。私あんまりわかんない」
「コンピュータ業務じゃない。人間相手の仕事だよ。そちらの手際より、話す能力のほうが求められるんだ」
「あんまり話すのも得意じゃないからね……」彼女は言った。「ねえ、なにかない?」
「いっそのこと、学校にでも通って勉強し直してみれば?」 「もうそんな歳じゃないよ」
「じゃあ、辞めてから考えればいいさ」僕は言った。
 彼女は黙った。大抵会話は彼女が断ち切ってしまうのだ。
 僕が眠ろうとすると、また彼女は声をかけた。
「そういえば、あなたは無職の頃が長かったんでしょ?」
「まあね」
「なにをしてたの?」
「適当なこと」僕は言った。
「でも、無職は不安じゃないの?」
「あんまり考えないと、楽しいよ」
「ねえ、具体的になにしてたの?フラフラしてたっていっても、ずうっと寝ていたわけじゃないんでしょ?」
「2/3は寝てたよ」
「起きてたときは?」
「絵を描いたりしてたかな」言いながら、すうっと意識が遠くなっていくのを感じた。
 薬は飲んでいたはずだったし、今日これまでは前兆がまるでなかった。少し油断していたのかもしれない、と僕は思った。彼女はこちらを見ていなかった。頭と枕の間に挟んでいた腕を取り出し、背中を丸めた。眠い、寝るよ、と僕は言った。
 ……え、寝ちゃった?
 という彼女の声が聞こえた。僕は目を閉じ、すべての音と画面を頭の中から締め切った。



 我に返ってすぐ、僕は目を開けた。目を開けるにはあまりに頭が重かったが、勢いをつけ起きあがった。
 彼女は僕の隣で寝息をたてていた。毛布一枚しかかっておらず、考えてみれば僕も同じだった。彼女の身体に触ってみるとうっすら熱を持っていたが、僕の身体は冷たかった。ベッドから降り立ち上がると鈍い汗がでた。風邪の悪寒とは違った、絞り出されたような汗だった。
 僕はシャワーを浴び、テレビをつけ、煙草をつけた。音量を絞ったテレビの画面を眺め、そのまま朝まで過ごすことにした。
 不愉快さはシャワーと一緒に流れていた。身体におかしいところなかった。むしろ快適なほどだった。睡眠の必要を感じない。
 僕は落ち着こうと試みた。身体を動かさないよう、テレビの画面に集中しようと試みた。夜は長く、それを考えると恐怖だった。だいたいどうしてこんなに慌てているのかわからなかった。あわてている、と実感し始めると、また汗が流れた。不愉快だった。眠りたかったが、眠れそうな気配がまったくない。
 彼女にこのことを上手く話さなければいけない、と思った。薬を飲んでいる姿を見せ、それっぽい病名を告げる必要があるだろう、と思った。でも、それは上手く喋れないだろう。
 話すつもりが僕にない、ということに気がついた。そう思うと、少し僕は落ち着いた。




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 僕が私的に使っているメールボックスにメールが来ていた。妹のメールではないことは、すぐにわかった。
 タイトルは「お元気ですか」となっていた。差出人は、「古沼静香」と書いていた。