宝物は何だっけ?

其の参

上松 弘庸





 私はここで橋本義和について説明しておこうかと思う。といっても義和はこの小説に於いて重要な役割を果たしている訳ではないのだが。この小説に彼が出てくる事自体、寄り道に過ぎない。しかし、何れにしろいい加減うんざりするような客観的な抽象も、内面的な表現も、もう沢山だ。紙面も少ない。それに私が書き記したいのは主観的な苦悩、幸福を渇望しながらも其れに向う事の出来ない橋本伸一個人の葛藤なのだから。いや、しかし其れも或いは…まぁいい。先に進もう。少し私は先を急ぎすぎたようだ。
 橋本義和、伸一の父である。彼は背が高く、また体つきも良かった。一見しただけで聡明である事は覗えるし、実際物事を多くの観点から捉える事ができる優れた思考を持ち合わせていた。そして、あらゆる娯楽が嫌いであり、彼は子供たちにあらゆる娯楽を禁止した。加えて、常に自分を高める努力を怠らない人であり、また残念な事に随分と酒のみでもあった。毎日晩酌を欠かした事がないが、彼は異常とも思えるくらい健康を気にしている為にカロリーや塩分が多いものは全く食べず、専ら毎日魚や豆腐等を食べるのであった。従って彼の妻の春海は食事の準備よりも先ず、「毎日欠かす事が決して無いように」酒のつまみを用意しなければならないのであった。場合によっては酒のつまみだけ食べて、料理に殆ど手を付けない事もしばしばあった。
 また、彼はかなりの読書家であった。そして彼もまた、読書家の中に時々見受けられる向上心溢れる人と同じように、本を全く読まない人をただそれだけの理由で自分より下に見立ててしまうのであった。これは実に残念な事である。しかし、真に尊い読書というのは何よりも肝要な事ではないだろうかとも私は思う。そしてまた、そのような本と巡り合う事は他のどんなものとも代え難い幸せではないだろうか。実際、彼がしてきた読書の中にもそのような尊い、貴重な本が少なからずあったのだ。それは彼を大きく成長させたことだろう。しかし、彼の息子伸一や聡はというと、残念ながらそうはいかなかった様である。伸一と聡は彼からあらゆる娯楽を取り上げられ、その代わりに膨大な数の本を与えられた。故に自分から欲した読書ではない、こういう場合にありがちな全く辛い読書であった。全く興味のない映画を次々と見せられるようなものかもしれない。私は読書をしていると、前に読んだ時には何の変哲もなかった個所が、急に光り輝いて見える時がある。また、優れた本ほど、まるで読み手と一緒に成長したのではないかというぐらい読み手の受容度が高く、新しい顔で応えてくれる。しかし、これには当然読み手の向上が不可欠であり、いつまでも「読む為の技術」が未成熟のまま本に挑まざるを得ない身にはかなり堪える事実である。伸一と聡は本を読む度に力を付けているのだが、残念ながらそのような新たな発見をする事ができうる本と巡り合っていないのだった。

 「あ、お帰り、父さん…」伸一は玄関に駆け寄った。義和はネクタイを緩めながら伸一の傍を通り過ぎた。
 「今日は随分と早かったんだね」「規子は帰ってきているのか?」義和は鋭い目で伸一を睨んだ。「いや、まだ…」伸一は、何も言わず腕時計を見た父の眉が僅かに動いたのに気が付いた。「兎に角、風呂だ。風呂は沸いているのか?」「あ、いや、今湯を入れている所だからちょっと待って」
 「おい!今日は早く帰るといってあっただろう!」義和は台所の春海に向かって怒鳴った。
 「規子から連絡はあったのか?」
 春海は義和の問いには答えずせっせと酒のつまみの秋刀魚を焼いていた。
 「おい!連絡はあったのか?」食事用テーブルの椅子に座ると義和はまた尋ねた。その口調には苛立たしげな彼の心情が多分に含まれていた。聡はいつのまにか自分の部屋に引っ込んでいた。伸一は黙っていた。
 「父さん、ちょっと話があるんだ」伸一はバラエティーが映っているテレビのチャンネルを慌ててニュースに変えながら言った。
 「父さん、実は」「なんだ!広島負けてるじゃないか!」表示された9−4というスコアボードを見ながら義和が叫んだ。「佐々岡は何をやってるんだ!」「しょうがないよ、巨人相手じゃあ。江藤も巨人行っちゃったし…」
 「つまらん」そう呟くと義和は席を立った。「父さん、何処行くの?」「風呂に入ってくる」タオルと着替えを持って風呂場へ向かう義和の後を追いかけるように伸一は席を立った。
 「ちょっと聞いて欲しい事があるんだけど…」「急ぎか?」「あ、いや…」「なら後にしろ。湯船には浸からんからすぐ出る」伸一は何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
 その時、電話が鳴った。誰も電話に出る気配が無いので仕方なく伸一はテレビの音量を下げて渋々受話器を取った。野球解説は2−0で中日の完封勝利を告げていた。
 「もしもし、橋本です」極めてぶっきらぼうに、伸一は言った。電話は苦手だ、と彼はいつも思う。
 「あ、お兄ちゃん?よかったぁ、お父さん出たらどうしようかと思っちゃった」
 「規子か?」伸一の声に反応して、すぐ近くの台所にいる春海がちらとこちらを向いた。
 「お前、今何処にいるんだ?」
 「今、友達と一緒に旅行に行ってるの。北海道」
 「北海道!」伸一は素っ頓狂な声を上げてしまった。「そんな事親父が許してくれるわけないだろ!」
 「うん、だから内緒なの」なんの悪びれた様子もなく規子は言った。「でも、お母さんにはちゃんと言ったんだよ」
 伸一はすっかり驚いてしまった。「知ってたの?母さん?」大きく目を見開いて尋ねると、春海はちょっと照れてから「お父さんには内緒よ」と小さな声で囁いた。
 「参ったな…」伸一は規子が父に内緒でこんな旅行を企てるとは夢にも思っていなかったので、俄かに信じられない心境だった。しかも、よりによって母も知っていたのである。伸一は今でも、母と妹がそんな事を企てていたという事をうまく飲み込めなかった。何故妹が父に内緒で旅行に行ったのかが分からなかった。いくら考えてみても分からなかった。
 考えるに、自分の事を興味深々に根掘り葉掘り尋ねる人がいれば、我々はその人をとても大切に思うのではないだろうか。また逆に、自分の事について全く興味を持ってくれない人がいれば、どんなに寂しい事だろう。二人の人間が仲良くなる最良の手段は、互いに相手の事について感心を持ち合う事であろう。伸一の家族は互いにざっくばらんで、秘密などついあった例が無かった。お互いがお互いを干渉し合い、疎んじたり煩がったりしていたが、それは本来家族の在るべき姿だという義和の考えの元、良い意味でも悪い意味でも個人の行動は団体の意思により決定されてきた。規子の旅行は、完全な単独行動ではない。家族の意見の対立が表面化されずに存在する事が明らかになった。つまり最終的な決定権が彼らの父義和の手から離れたのである。それは伸一には俄かに信じられなかった。
 「お兄ちゃん、何かお土産欲しい?」
 伸一は心の中で徐々に冷たい怒りが込み上げてきたのを感じた。そして、自分でその理由が分からないのが彼には余計気に入らなかった。
 「おい、なんでお前が、自分一人で、そんなこと決めてるんだよ」無意識のうちに語気が荒くなる。「親父が許すわけ無いだろ!」
 「でもお母さんはいいって言ったよ!」
 伸一はゆっくりと受話器を置いた。そして目を瞑った。彼はとてつもない疲労を感じていた。
 「母さん!」伸一は大声で怒鳴った。
 「母さん、もうお終いです!ああ、僕達はなんて不幸なんだろう!母さん!僕は、僕は…」
 その時丁度義和が風呂から上がってきた。「伸一、どうした?」
 「ああ!父さん!」彼は大きく目を見開いた。彼は小刻みに震えていた。「ああ…父さん…。可哀想なお父さん…。どうか…どうか僕を許して下さい。そして僕と同じだけ皆を許してやって下さい…。僕は…、僕は…。ああ!決してこんな事は在ってはならない!母さん!ああ!決して!決して!ああ!貴方達は僕を許してくれますか?許して下さいますか?ああ!決して!決して許してくれる筈が無い!!」
 伸一の不幸に逸早く気が付いたのは彼の母親であった。彼の母親は倒れた伸一の口の中にタオルを入れ、頭の下に枕をあてがった。
 「ああ!伸一!伸一!」最初彼の父は事態がうまく飲み込めなかったが、妻の春海から何度も話を聞かされていたので、やっとのこと事態を把握した。「ああ!伸一!」義和は深い悲しみに胸を咽びながら、ただ、伸一の、決して光のない伸一の未来を願った。「伸一!ああ!伸一!伸一!」


 「お兄ちゃん、泣いてるの?」
 「え?ああ…、いや、なんでもない」少年はそっぽを向いた。
 「お兄ちゃん、なんで泣いてるの?どこか痛いの?それとも一人で寂しいの?」
 少年は確かに泣いていた。しかし、幼いながらも兄として弱い所を妹に見せられないという一心で、少年は一生懸命堪えていた。だが涙は次から次へと溢れてきて、遂には堪えきれなくなった。少年は声を出して泣き出してしまった。泣きたい時に誰かが近くに居てくれれば、それだけで悲しみは薄れていく。自愛へと変わる人も居るかもしれない。しかし、少年のような純粋な心の持ち主は自分の愛する人の為に涙するのである。少年は、ひたすら泣いた。自分の為に泣いてくれる全ての人の為に泣いた。
 「お兄ちゃん、泣かないで。お兄ちゃん、なんで泣いてるの?泣かないでよ。ねぇ、お兄ちゃん…」
 妹まで泣きそうになっているのを見ると、少年は余計泣くまいと思う。しかしそう思う心とは逆に、涙は次から次へと溢れてきた。
 「泣かないで、お兄ちゃん、泣かないで、お兄ちゃん…」
 ついに少年の妹も堪えきれなくなって泣き出してしまった。遠くでそれを見ていた彼の弟は、突然、大きな声で笑い始めた。ヒステリックな笑い声は辺り一面に響き渡った。夢の中で伸一は、誰よりも脆く、そして誰よりも弱かった。


 伸一が目を覚ましたのは次の日の夕方だった。