宝物は何だっけ?

其の七

上松 弘庸



 カン、カン、カン。
 今度はちょっと大きいな
 カン、カン、カン。
 治るかな ちょっと継ぎ接ぎ 足りないな
 カン、カン、カン。
 ちょっとだけ塞げなかったけど これくらいなら大丈夫
 また穴が大きくなったら治しにおいで
 今度は早めに来るんだよ






 『話してごらんよ。何もかも話してごらん』






 「誰だい?…あぁ、君か。『クリア』じゃなくて良かったよ」






 「別にいいけれど、それはもうずっと昔の話。今となっては懐かしいものさ。あんまり面白い話でもないよ」





 
 「全ての始まり、そして全ての終わりから話そうか」
 「目を開けてみると俺の頭は幾本ものチュ―ブに繋がれていたんだ。全身に麻酔が効いている為に自分で見る事は勿論できない。だけど、その時ドリルで空けられた頭蓋骨の穴は、今でも俺の頭蓋骨を歪な形にしているんだ。頭蓋骨上部を取り外した跡も、くっきりと残っている。鼻には酸素のチューブ、鼻から胃へと通じる胃管、栄養補給の点滴は…そう…左手だったかな…右手に輸血の点滴をしていたから…。そして尿道にはカテーテル。兎に角チューブだらけだったな、今考えてみると。その時の事はあまり覚えていなかったけど。それから、とてつもなく水が飲みたかった記憶がある。手術後、極めて危険な状態だった俺は50cc以上の水は飲ましてもらえなかったらしい。今でも強く覚えているのは、あのとてつもない喉の渇きだけだな…。

 そして半年後、腫瘍が再発してまた入院した。2回目の手術はかなり危険だったらしいけどなんとか成功して退院した。その退院直後、脳内に血が溜まりまた手術をした。

 そして、そんなふうにして俺は癲癇患者になっちまったのさ」

 伸一は一旦話を止めた。部屋は静まり返り、僅かな石油ストーブの動作音が部屋の中に充満した。子供達の集団が近くの道路を通った。外から響いてくる子供達の笑い声が引き金になって、伸一は昔の事をふと思い出していた。それは遠い遠い昔の事。伸一が癲癇の恐怖に慄く毎日を送るようになるずっと前の話。

 子供の頃、伸一はいつも何かに反抗していた。社会、学校、教師、友人。ただ、両親にだけは反抗しなかった。
 ある日、伸一は学校の三者面談で担任に、授業中に教室を出る、授業の妨害をする、テストはカンニングする、など散々に悪態をつかれた。伸一は、反論が山ほどあったが黙っていた。教師面しやがって。いつも注意一つ出来ないくせに。
 しかし彼の父、義和にとって伸一の不満を解消する事は造作も無い事であった。春海から話を聞いた義和は全く動じる事無く、伸一にこう言うだけなのだ。「お前はそんな事をする奴じゃない」。自尊心の高い伸一は、父親にこう言われるだけで完全に抵抗する力を失うのが常だった。伸一にとって父親は絶対的存在だった。

 「僕は考えるんだ。後どれくらいであんな大人になるんだろうってね。本当は大人になんかなりたくないんだ」
 と、随分後になって伸一は友人に言った事がある。
 「だけど僕は大人にならなきゃいけない。だから今日ここで、僕は大人になる決意をする!」

 彼はセントウジョウタイに入った。


 どれくらいの時が経っただろう。外ではまだ子供達の笑い声が響いていた。下校してきた小学生達だろう。黄色い帽子を被り、赤や黒のランドセルを背負っている。すぐ隣の道路でびっこの野良猫が少年達に石を投げられ、まるで生まれたての赤ん坊のような泣き声で助けを求めていた。4,5台の自転車の集団が通った。見たところ高校生だろう。高校生の集団は物凄いスピードで自転車を漕いでいた。もし今大地震が起きたとしても、彼らは気が付かずに自転車を漕ぎ続けるかもしれない。大地震が起きたとしたら、彼らは何を思うだろう。そして、びっこの猫は何を思うだろう。

 「でも」と伸一は続けた。「俺はその時に生きたい、ただ漠然と生きたい、とそう思ったんだ。強くそう願った訳でもないし、渇望した訳でもない。ただ、ふとそう思ったんだ。上手く言えないけれど、それが当たり前のように。実際、生きるという事は当たり前の事じゃないか。そんな事を願ったり、その事について感謝したりするのは間違っていると思うんだ。当たり前の事だけど、俺は生きたい、そう思ったんだ。どんな事があろうとも生きたいと思ったんだ。死ぬのなんて真っ平御免さ」

 『君は何を恐れているんだい?』
 「俺は何も恐れてなんかいないさ」
 沈黙。
 『いいかい?恐れる事は何も悪い事ではないんだよ。それに弱い事とも限らない』
 「俺はそうは思わないな」
 『それは君の勝手さ』
 「そう。俺の勝手さ」

 また長い沈黙があった。
 「死ぬのが怖い。僕は死ぬのが怖いんだ」
 「いや、本当に怖いのは死ぬ事じゃない。俺は、癲癇が怖い。癲癇が怖いんだ」
 「俺は気違いみたいに毎日癲癇に怯えているんだ。毎日毎日毎日毎日怯えているんだ」
 「俺は奴隷さ。恐怖の奴隷さ」
 「癲癇が起きそうになる度にね、凄い絶望感が俺を襲うんだ。その絶望感の中で、俺はいつも生きたい。そう思うんだ。これからだってそう思い続けるだろう。俺は絶対に生を手放したりはしない。どんな事があっても、何を犠牲にしようとも、俺は生きつづけてやる。また脳腫瘍になろうとも、全身の自由が無くなり、ありとあらゆる薬剤投与をされるようになっても、例え脳が機能しなくなっても生きてやる。俺には生きる権利がある。誰もこの俺の最後の権利を奪う事は出来ない筈だ。俺は最後まで生き続けてやる。最後の1秒だって諦めないぞ」

 「ねぇ、俺は気が狂っているのかい?」 
 沈黙。
 「ねぇ、僕は気が狂っているのかい?」

 「生きていながら命そのものを実感できないなんて、そんな道理があるのかい?1本の草、1枚の葉、全てに生命がみなぎっている。ただ俺だけに命がない。俺の記憶の中には、如何しても消し去る事の出来ない大きな暗闇があって、全くの放心状態でさえ、その真っ暗な暗闇がいつも残っていて、それを中心に、夢とも現とも区別が付かない世界が、重苦しく回転している。俺はもうずっとこの暗闇の中で生活しているんだ。この暗闇に出口はあるのか。光は指し込んでいるのか」伸一は顔を歪めて蹲った。
 『やめよう!もうやめよう!もうたくさんだ!』
 「なんだって!逃げるのかい!君は自分から目を背けるのかい!」

 遠くで6時を知らせるチャイムが鳴った。冬の柔らかい夕靄に包まれて、窓から見える景色は伸一に何処かこの世界が現実離れしている感じを与えた。或いはここが伸一の世界なのかもしれない。遠くで、何かが聞こえる。そう、あれは変化の波の音。伸一は流されて何処へ行くのか。

 『君の物なんて何もないよ』色褪せた世界の内側から声が聞こえる。
 「ああそうさ。僕の物だって何もない。見ろよ、この金だってこの服だってこの家だって、水や空気だってそうさ。この世に僕の物なんて一つもない」
 『君の体は?』
 「勿論俺のものじゃないさ」
 伸一は語気を荒げた。
 「いいかい?今の俺に残っている物はちっぽけな自尊心だけさ。それさえももう無くなってしまったけどね!」
 『それは違う!』
 「黙れ!」
 伸一の目には涙が溢れていた。もう一人の伸一、伸一がマッドと名づけたその気違いの目に、伸一は溢れんばかりの涙が光っているのを認めた。
 『君は少し単純過ぎる』
 「おや?一番大切な物は常に単純な事の中にあるんだよ?お前は知らないのか?」
 『君は勘違いしている。僕が言いたいのはそんな事じゃない!何でそんなに拘ってるんだ、安っぽいプライドなんてゴミ箱に捨てちまえ!そんな物、糞の役にも立ちゃしない!』
 「だって俺にはもうそれだけしか残っていないじゃないか!」
 『違う!君は短絡に考え過ぎる!』
 『僕らにとってなにが一番大切かっていうと、僕らが自分自身、何が出来、そして何が出来ないかをよく理解する事だと思うんだ。つまり、僕らに出来る事が僕らの宝物って訳さ』
 伸一は侮蔑の目で鏡を見ていた。
 『君は僕を憎んでいるのかい?』
 「憎みゃしない。ただ軽蔑してるんだ」
 マッドは続けた。
 『人は色んな物を犠牲にするけれど、何を犠牲にしたかは考えないんだ。僕だってそうさ。僕なんか何を犠牲にしたかだけじゃなくて何を得たかさえ分かりゃしない。不幸だけに文句を言って、幸福に感謝をしない事は最大の罪だよ。いいかい、幸福に気付かない事が最大の不幸なんだ』
 『この世の中には余計なものが多すぎる。皆よってたかってその余計な物を欲しがるんだ。本当はそんな物要らないんだ。みんな気が付いているんだ。本当に大切な物は、みんな持ってるんだ。それなのにその事にみんな気がつかないんだ。でも気が付いている人もいるかもしれない。だけどやっぱり殆どの人は気が付いていないな。僕だって気が付いていないもの。ああ、誰だっけ、このことに気が付いてそうな人がいたんだけどな。誰だっけ』
 マッドは必死に思い出そうとしていたが、無駄だった。伸一はその人物の名前を知らないのだ。もう随分と前、駅前のBARでたった一度きり一緒に飲んだだけのその人物、誰よりも苦悩を愛し、誰よりも苦悩を渇望していたその人物を。
 『もう一度逢いたいなぁ。ねぇシンイチ、君はアイツと気が合うよ。絶対』

 「その人は」
 『え?』
 「その人は、もしかして若い男の人で、紺のスーツ着た人じゃなかった?だけど靴は安物のスニーカー履いてて。違う?」
 『分からないや。覚えてないや』

 『でも、そうかもしれない』


 憂鬱が捌け口を探している。が、捌け口は見つからない。捌け口が見つからないので憂鬱は蓄積され、膨張し、ストレスの匙で攪拌された暗雲と共に全世界に広がる。暗闇に閉ざされた世界には意欲の光は指し込んで来ない。希望を失い、夢を奪われ、汚泥の中に救いを求める。汚泥の中にも救いはあるが、自分の持っている一切が泥の中に埋もれる事になる。泥の中に捨ててしまった物は、何時だって必要な時に見つからない。一体何処にあるのか。泣きながら泥の中を這いずり回って、やっと捜し出したものは、絶望の2文字だけ。やっと見つけた自分だけの宝物。狂喜乱舞し、大事に大事にポケットに仕舞う。無くさないように。壊さないように。


 『いいかい、絶対に諦めちゃ駄目だよ』
 遠くの方で幽かに声が聞こえたような気がした。