宝物は何だっけ?

其の八

上松 弘庸



『ねぇ、教えてよ。一体俺はどうしたら良いんだい?どうすれば姉貴は元に戻るんだい?だって、姉貴までもが不幸になっていくなんて事は許されないじゃないか。いや、俺は不幸じゃない。兄貴とは違うんだ。そうさ、俺は違う。俺は兄貴みたいにはならないさ。絶対。だってそうだろ?ねぇ、何とか言ってくれよ。なぁ、壊れちまったのかい?折角友達になれたのに壊れちまったってのかい?なぁ。俺を一人にしないでくれよ。さっきは癇癪起こして悪かったよ。謝るからさ。だから俺を一人にしないでくれよ。それに俺がヒステリーを起こすのは俺のせいじゃないんだ。もう何回も話しただろ?俺は何も悪い事してないんだ。これからだってそうさ。第一、悪い事するのは俺じゃなくて兄貴の方じゃないか。いつも殴るのは兄貴の方じゃないか。俺は兄貴が大嫌いだ。だけど、姉貴は大好きさ。だって姉貴は俺が何をしたって殴りゃしないもんな。俺が何回壊したって姉貴が直してくれるもんな。だから、俺はいつだって姉貴を大事にしてきたんだ。なのになんで姉貴がおかしくなっちまうんだ。もしかして姉貴も壊れちまったってのかい?なぁ、頼むから何とか言ってくれよ。困るんだよ。俺は一人じゃ駄目なんだよ。何にもできないんだよ』

 壊れた人形が聡を見ている。
 壊れた人形は心が無い。
 壊れた人形は喋らない。
 壊れた人形はもう人の形をしていない。

ゴミだ、聡はそう思った。








規子の部屋は2階で、聡の丁度真上にあたる。その部屋には規子の他に、春海と、話を聞きつけて今日帰ってきたばかりの伸一が居た。伸一は悲しげな目で規子を見遣っていた。春海は相変わらずおろおろするばかりだった。
 「何なの!痛い!私が何をしたって言うの!何で私の事をそっとしておいてくれないの!良いじゃない!もううんざり!出てってよ!頭が痛いの!止めてよ!話し掛けないで!」
 大声で叫びながら、規子はその場に蹲った。春海は慌てて駆け寄ったが、どうしていいか分からずに戸惑っていた。
 「母さん、そっとしておいてやろう」
 「でも…」
心配でしょうがないといった春海を、伸一は半ば強制的に部屋の外へ連れ出した。

 「まさか規子までが癲癇にかかるとは…」
 寂しそうに伸一は言った。

 伸一、聡、共に先天的な癲癇ではなかった。2人は多少の違いはあるが、手術によって圧迫された脳の影響で癲癇が起きているのだった。伸一は脳腫瘍、聡は交通事故だった。
 ここで2人の悲惨な闘病生活について述べるのは止めておこうと思う。無残にも粉々にされた彼らの自尊心は、相違こそあれ、精神的に彼らを追い詰め、混乱させ、そして堕落させた癲癇への恐怖心と非常に捻じ曲がった形で再形成される事になった。伸一の精神は分断され、聡の精神は無意識の底に眠った。結果、伸一は非常に苦しむ毎日が続き、聡は自己を放棄し別人になった。
『規子は?規子はどうなるんだ?』
伸一は思った。
『せめて俺のようにはならないようにさせなければ』
そしてそれは義和も春海も聡も思っている事であった。


 聡は人形の頭の中に入っていた綿を抜き出し、ごみ箱に捨てた。そして自分の頭の中に手を入れようと一生懸命色々な角度から手を頭の中に入れようと努力した。が、どうやっても頭の中に手を入れる事はできなかった。
 『でも兄貴だって昔はきれいな心を持っている、優しい人間だったさ。それに子供の頃は俺だって純粋だったさ。誰だってそうだろ?そうさ、誰だって最初は優しくて純粋な、まるで天使のような人間だったんだ。なんで生きていくうちに汚れていくんだろう?なんで汚れてまで生きていくんだろう?だって辛いじゃないか。何でこんなに辛い思いをしてまで行き続けなきゃいけないのさ。いつまで苦しみつづけなきゃいけないのさ』

声を出さずに聡は泣き始めた。
静寂の中、ゆっくりと流れる涙の雫。純粋な悲しみが聡を包み込んだ。