宝物は何だっけ?

其の九

上松 弘庸


 伸一には3つの世界がある。1つめの世界は何もかもが新しく、そして素晴らしい。全てのものが輝いている。全てのものが確かに存在し、そして確かに共存している。この世界で伸一は向上心に満ちている。
 2つめの世界は伸一にとってただひたすら退屈である。退屈以外にはビールくらいしか存在しない。退屈とビール。この世界で伸一は諦め、妥協し、そして真摯に現実を受け入れている。
 3つめの世界は常に癲癇の恐怖に怯える絶望の世界である。この世界で伸一は全く無力である。其処には絶望以外何も無い。ただ恐怖と共に生活するのみである。
 強すぎる光が深すぎる影を落とす。深層心理の奥底に蠢いている決して消える事の無い絶望。蹲って吐き気を堪えながら、ひたすら未来に恐怖する。退屈。退屈。退屈。笑おうとするが、声は出ない。かすれた声で、それでも精一杯笑おうとする。足腰立たなくなって、気が狂ってしまうくらい一生懸命笑おう。だって笑っていた方が楽なんだもの。笑っていなきゃ押しつぶされちゃうじゃないか!右も左も、昔も今も、笑っていなきゃやってられないじゃないか!
 退屈。退屈。退屈。恐ろしい位ゆっくりと流れていく時間の中で、希望と絶望が交じり合った退屈の中、声を出さずにひたすら笑う。自分は何処に向かっているのだろうか。「其処」は確かにあるのだろうか。くぐもった声で尋ねてみても、何にも返事は返ってこない。自分の周りに誰も、何も存在していない。その事を知ると、自分がとてつもなく孤独な存在に思える。こんなに苦しんでいるのに誰も自分の事なんて気にもとめちゃいないんだ!
 そもそも本当に時間は流れているのだろうか?時間は意味を失い、空虚な世界は意識の中を漂う。僕は此処に存在しているのに、この虚無感は何だ?一体僕は何処にいるんだ?0と1との世界の中、感性だけが居場所を失っている。
 一体僕は0と1で表されるんだろうか!
 絶望さえも、虚無の中では心地よい。それは確かに此処に存在するんだ。やっと見つけた宝物。大事に大事にポケットの中へ仕舞う。壊さないように。無くさないように。
 おや?
 僕はこの絶望を憎んでいたんじゃなかったっけ?
 どう致しまして!僕は絶望を憎んでなんかいない!絶望は何時だって僕を外の世界から守ってくれる。包み込んでくれる。僕が憎んでいるのは快楽だ!欲望だ!幸福だ!
 何故?
 あいつ等は僕を次から次へと斯き立てるんだ!僕は幸せになんかなりたくない!0と1の作り物なんか真っ平御免だ!僕は僕だ、0と1なんかで表されて堪るか!
 退屈!退屈!退屈!僕の世界が作り物だったとしても、例え僕自身が作り物だったとしても、この内から湧き上がる恐怖は本物だ。この永遠の悪夢の中では恐怖や絶望だけが真実だ。
 だけど。
 僕はこの偽物の世界の中で生きていかなくっちゃいけない。偽物の世界の中で、0と1とで構成された幸せを追い続けなくちゃいけない。何も無い完全な闇を、0と1とで作られた光で照らさなくちゃいけない。闇は悪だ。光で照らさなくちゃいけないんだ。何時までも影と会話をしている訳にはいかないんだ。
 僕は一体何をしているんだろう?




 「兄貴はさ、駄目な人間なのさ。現実を受け入れられない弱すぎる人間なのさ。だけど俺は違う。兄貴とは違う」
 「あまりお兄ちゃんを悪く言うものじゃないわ。だって苦しみながら頑張っているじゃない。本当は聡も分かっているんでしょ?それに現実を受け入れられないのは聡の方じゃないの」
 「違うよ。僕はお姉ちゃんとおなじさ」
 聡は歪んだ笑いを規子に向けた。が、部屋の中は真っ暗なので規子はこんなに至近距離でも聡の顔をハッキリと見る事ができなかった。
 「ねぇ、お姉ちゃん」
 聡は抱きかかえる両手に力を込めた。
 「お姉ちゃんは現実を受け入れる事ができたんでしょ?」

 今度は規子が卑屈な笑いを浮かべる番だった。




 「俺は一体これから何処に向かっていくんだ」
 伸一はひたすら一晩中考え続けたが答えは出なかった。そしてそれは今までも何十回、何百回と考えていながら、結局未だに答えを出せずにいる問いだった。
 光に進み影を失うか、闇に進み光を失うか。

 そろそろ決めなければいけない、と伸一は思った。
 「そろそろ決めなきゃいけないんだ。僕はもう22で、思想も行動も決定しなくちゃいけない時期にきているんだから」
 伸一は大きく息を吸い込んだ。

 「決めた」

 隣の部屋ではやっと規子と聡が寝たようだった。
 時計は5時を過ぎている。白みがかった空には、そろそろ太陽が昇ろうとしていた。